バルセロナ建築漫遊記

バルセロナからの気ままな発信です。
2012年サンクガットの元旦
 2012年元旦 サンクガットの森から左モンセラット、右サン・リョレンス山の眺め。
この中央奥には20年前に設計に関わったバルセロナ日本人学校がある。
バルセロナの今年の始まりは穏やかに晴れ渡った。



お犬達もこの素晴らしい景色を眺めている。




2012年の初日を浴びる左からラン、マツ、ベル。


今年初採れのトランペタのキノコ。クリームシチュウと一緒に煮込みその上に生クリームをかけて食べると旨い。今年は正月から収穫があり縁起がいい。

2012年わが家のお節。





なます、カラシ蓮根のテンプラ、タコ、日本からのカマボコ、玉子焼きの5品にお煮しめ、鴨のロースト、今年は食べやすく地中海の鯛とマグロのにぎりとキュウリに乗ったウニなど。
ワインはナバラ地方のOCHOA2000 VENDIMIA SELECCIONADA の赤。

今年で26年目。スペイン、サンクガットで美味しい元旦を迎えられたことに感謝。
良い年の始まりとなった。




| u1arc | サンクガットの森 | 20:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
2012年新年明けましておめでとうございます。         今年は『新たなる船出』

 2012年新年明けましておめでとうございます。
皆様の健康と発展をお祈り申し上げます。

2012年1月1日
バルセロナより
鈴木裕一



伊東豊雄さんより家族3人の名前の入ったサイン本『新たなる船出』をいただく。
ありがとうございました。

毎年スペイン新年恒例の12粒の白ブドウを食べ終わった。
昨年は瞑想リハビリで気力+体力が回復してきたようなので、今年は私も『新たな船出』をしたいと思う。
| u1arc | - | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
ついに完成!バイス三兄弟セルフビルドプロジェクト 31   『この建築を造ったことを誇りに思う。』

 とにかく激動の年で大変であったが今年も残すところ2日を切った。

地震、津波、原発のとてつもない日本の大災害。
ジャスミン革命と呼ばれカダフィら独裁者が市民により殺され、次々と追放されたアラブの春。
スペインのマドリッドの中心プエルタ・デ・ソルで始まった”indignados"=怒る市民たちがバルセロナのカタルーニャ広場にも広がり、この動きがニューヨーク、日本の反原発運動にまで世界中に拡大。
ギリシアの財政破綻から始まったユーロの危機。

このヨーロッパの危機的状況でスペイン大不況の中、バイス三兄弟プロジェクトの工事継続が危ぶまれていたが、ついに完成した!

建築確認=VISADOが承認され、建築許可が出たのが2006年9月4日。
建築工事開始が8日後の9月12日。
それから2回の建築許可の更新を経て、6年後の丁度一ヶ月前の11月30日に工事完了届=Final de obraとなった。



迷った末、最後には屋根をZINCの黒して一段と締まった外観となる。


サロン部分には、手水鉢の泉をデザインしチョコッと和風にする。
玄関の扉を開けると5m天井の高いボールトで和風の坪庭を透かし、
プール、遠景には松林が広がるという奥行きのある空間となっている。

バイス三兄弟のブログは今回で31回目となり、読み返してみると皆で『建築を創る!』という熱い想いが伝わってくる良い記録となっていると思う。




玄関入口アプローチ部分。


左は勝手口。右の扉はプールのある庭に繋がる。



先日4ヶ月ぶりに降った雨で、陸屋根の各ガーゴイル=雨樋口から円形の鉄枠に敷いてあるコレクターの大理石の玉石に滝の如く雨水が落ち、ろ過されプールサイドの地下に作られた雨水貯水槽3x5x3m=45m3に蓄えられ、ほぼ満杯になった。

7X14mの自慢の曲面大屋根からも樋はあえて付けないで雨水を直接テラスに落とし、その下の玉石の部分がコレクターとなっている。
この建築は雨水利用のエコシステムの性能が優れていることも実証できた。



右が三兄弟、次男ホセ。右はパパ。

『この建築を造ったことを誇りに思う。』とバイス三兄弟のパパは言った。
この写真からも誇りと自信がうかがえる。
この大不況をものともせず、6年の長い時間諦めないでセルフビルドでコツコツと完成することができたのは、この建築にかける想いであったのだ。
本当にこの建築をデザインし、限られた予算の中で一緒に現場で考えながら、その都度彼等にもできる合理的建築方法を見つけ出して、フィードバックを繰り返しながら、らせん状に登りつめてきたという感覚である。

スローな建築であったが、今までの住宅にはないモダンでオリジナルな美しいフォルムの建築に仕上がったことに大変満足している。
彼等は今の建設のプロ以上のものをこの建築と共に学んできている。
本当の建築を創っていくには時間がかかるのが体で解っているのは、ガウディの生地、ローマ建築を造ってきたタラゴナ人の伝統=建築のDNAとも呼べるものなのであろうか。

『建築の合理性とは、建築形態がその機能を満たす要求と建設手段の合理性を追求した結果によるもので、それが真実のフォルムであり、独創性=建築芸術となるのである。』
今、現在のそれぞれの建築環境、条件の中で徹底的に合理性を追求したものだけが真のフォルムを持つという、19世紀の建築理論家ヴィオレ=ル=デュクの教えである。
このことが建築=arquitecturaの原点で、これからの新しい建築芸術を創り上げるということが確認できた。

スペインで真の建築を追って25年、やっとここまでくることができた。
まだまだ建築の普遍性を探求する道は長い。始まったばかりだ。
これからに期待しよう。

それでは良いお年を!

| u1arc | バイスの三兄弟セルフビルトプロジェクト  | 13:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
クリスマスカード2011(バルセロナバージョン)を送ります 
 
| u1arc | 建築文化遺産 | 23:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
ピレネー山奥の教会(Jaca)にも聖杯=Sant Caliz発見!


この夏の三つ目の出来事は、ピレネーロマネスク教会を巡る2000キロの旅で行ったハカ(Jaca)のサン・フアン・デ・ラ・ペニャ修道院跡の『聖杯』発見である。



ハングオーバーした大岩壁にすっぽりと収まるように教会は造られている。
22年前来た時には、岩陰に投げ込み寺の様に建っている不思議なロマネスク教会だなと思っていた。
4年前に聖杯の辿ってきた道を調べていくと1071〜1399年までの間はここに隠されていたことが分かったので、今回、是非立ち寄ってみたいと思っていたのである。

1071年という年はアラゴン王サンチョ・ラミネスが修道院の新教会の建設に着手すると同時にフランスからクリュニー会派の修道士達を招いて改革を委ねていた時期とある。
現在の建物はほぼその時に改築されたものと考えてよいと思われる。

 

下の写真はこの建物一階部分の内部奥の岩壁側にある祭壇部分。
馬蹄形開口部のスペインでアラブ化したモサラベ様式と言われているが、よく見ると西ゴート伝統のローマ、ビザンチン建築に近いような気がする。
半円ボールトの両端を柱で支えていて柱が少し内側に入り込んでいる分、半円より状に少しすぼまった曲線になっている過半円状である。イスラム建築のボールトは過半円状ではなく、もっと縦長の曲線でいわゆる馬蹄形である。
なので、この部分の建築は西ゴート建築の特徴である3位一体以前のアリウス派の初期キリスト建築であるといえる。
一般的にはプレ=前期ロマネスクと言われている。

西ゴート王国はローマ帝国崩壊後の民族大移動で、北のゲルマン民族が5世紀から南フランスからピレネー山脈を超え、現在のスペインのほぼ全域を領土に持ち、イスラム勢力に侵略される8世紀まで300年以上続いた巨大なキリスト教王国であった。
首都はピレネーの北に位置するフランスのトゥールーズであったが、南フランスのナルボンヌ、アリウス派からアタナシウス派のローマカトリックに改宗したレカルデロ1世の時(586−601)にはスペイン中央部のトレドに遷都している。
300年にわたりピレネーを又にかけ、現在のスペインと南フランスに存在していたのであるが、その文化に関してはその後、ビザンティン、ローマカトリック、イスラム、によって侵略、破壊され失われてしまっていて謎の部分が多い。



開口部の過半円ボールト部分は切石で綺麗に積み上げられている。
ボールト部分のうけの部分はしっかりと大き目の柱頭で受けて、円柱や付柱でしっかり支えている。



2階部分は綺麗に半円トンネルボールト状に積まれた石積み天井である。
正面ファサード上部の開口部はやはり3つの半円ボールト窓が穿たれている。
これは325年ニカイヤ第一回公会議でアリウス派は異端とされ、Trinidad=三位一体のカトリック根本原理が承認された、その建築象徴化であると思われる。
ここで西ゴート建築の2つの小さな窓で象徴化されているアリウスキリスト建築は、その上に3つの大きな窓で象徴化された父と子と精霊の三位一体原理にとって変えられたのである。



2階にあるロマネスク様式の祭壇。
祭壇中央に『聖杯』を発見!!!

その時に重要な役割を果たしたのが、ローマで殉教したロレンソ=ローレンスの元から生れ故郷のサラゴサに送られてきたというこの『聖杯』ではなかったかと思われる。

サンチャゴの墓は、813年にイベリア半島の北西の果で奇跡的に発見されたという歴史的記述がある。718年にペラヨがコバドンガでイスラム勢力勝利し、アストリア王国を建設したほぼ100年後に当たる。
その後、ローマカトリック教会において最高のキリストの聖遺物で、ピレネー山脈のほほ中心に位置する、ここハカを対イスラム、レコンキスタへの戦略『サンチャゴへの道』作戦の拠点としたのではないだろうか?

この時期ヴェズレーでは、マグラダのマリアの骨がマドレーヌ寺院の聖遺物となり、フランス側の『サンチャゴの道』の起点となっている。
また、1164年にはケルンの大聖堂には赤顎鬚王Frederic1世がミラノカテドラルから東方の三賢王=Reyes Magosの聖棺を略奪して持ち込まれた。
当時、聖十字架、モーゼの鞭の最も重要とされた3聖遺物の一つである。

ハカのピレネーを越えたフランス側にはかつて西ゴート王国の首都トロサ(トゥールーズ)があり、この時期、巡礼教会としてサン・セルナン教会がロマネスク様式に改築されている。

フランス北部のブルゴーニュのウェズレー−>トゥールーズ−>ハカが線で結ばれ『サンチャゴへの道』として整備され、ローマカトリックによるレコンキスタ戦略体制が出来上がって行ったようだ。

#先程ヴィオレ・ル・デュクの年譜を確認すると偶然にもこれと同じ線が引けた!
 1833年デュクはこの年20歳の時に結婚相手エリザベトに出会い、5ヶ月にわたりフランス西南部を大旅行し、ピレネーの美しい風景を描いた作品は翌年サロンで入賞した。画家として認められたので彼女と結婚した。デュクにとってピレネーの山は運命を決めた場所であり、最初の修復の仕事は1840年ヴェズレーのラ・マドレーヌ教会で、晩年1870年トゥールーズのサン・セルナン教会の修復工事を完成させている。



これが今回あった『聖杯』の拡大写真。
バレンシア大聖堂のレプリカを最近置いたらしい。
もちろん、キリストが最後の晩餐で使ったものはパレスチナガラス製であったらしく、聖遺物して崇拝されるようになってから、後の時代にグラスを高価な黒メノウで覆い、10世紀には台座が宝石、真珠で装飾され、12〜13世紀には取っ手が付けられ現在のゴージャスなカップになったとのことである。
最近のイタリア人の考古学者による研究では、ローマのサン・ロレンソの墓から聖杯が見つかり、その内の一つを大グレゴリウスローマ法王(586−601)がアリウス派からアタナシウス(三位一体)派に改宗したレカレド西ゴート王へ送ったという記述があるとのことで、聖遺物によるローマカトリック教会の権威を高めることがこの時期盛んに行われていて、それがこの聖杯という説も出てきている。



ロマネスク回廊から礼拝堂部分を臨む。
左、過半円アーチの10世紀西ゴート様式の入口。上部中ほど、半円アーチ窓の11世紀ロマネスク様式、右端は尖頭アーチの15世紀、火炎式ゴシック様式のサン・ヴィクトリアの礼拝堂。
この部分だけで3つの建築様式が500年の長い歴史を経て現在に存在している。

文献・書物には残っていなくても、現在残っている建築の姿を見て、19世紀デュクが行った建築学的方法で分析し、当時の社会的状況を合わせて考え長いヨーロッパの歴史に思いを馳せることは楽しみの一つとなっている。

やはり建築は文化の生み出す産物であり、長い歴史の中で生き抜いて、現在に存在する文化遺産であることを実感する。

この激動の21世紀において、長い歴史のスパンで考え、過去の建築論、建築史を再研究&構築する建築史の方法の重要性が増してきているように思う。



| u1arc | 聖杯伝説 | 21:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< January 2012 >>

このページの先頭へ