バルセロナ建築漫遊記

バルセロナからの気ままな発信です。
ヴェズレーのラ・マドレーヌ大聖堂 ―マグラダのマリア伝説―
日は西に傾きかけてきたが、リヨンからさらに北上する。

今回の旅では、ルドゥーの製塩工場を見る前に、せっかくなのでブルゴーニュ地方ディジョンの西にあり、世界文化遺産になっているヴェズレーに寄ることに決めていた。

そこにはマグラダのマリアが奉られているラ・マドレーヌ大聖堂があり、フランスからのサンチャゴへの道の重要なスタート地点でもある。そしてシトー派の創始者ベルナールが第二回十字軍召集した所で有名である。また建築的にはヴィオレ・ル・デュクの最初の重要な改修作品となっているので、私にとっては絶対に外せない目的地となっていたのである。

なので、トイレ休憩無しの決死の覚悟で、夕食に間に合うように近くのホテルまでひたすら走ることとなった。

8時過ぎには何とかホテルに着き、近くの村のレストランで食事をとる。当然、この強行軍に家族の機嫌が悪い。
「明日はヴェズレーのラ・マドレーヌ大聖堂に行った後に、シトー派の修道院三つ見る。」という予定に、
「修道院ばっかり見たくない。車に乗りに来たのではない。」
と家族内反乱に合う。

次の日、車を大聖堂の際に止め、各自、自由行動とする。

一人でじっくりと大聖堂を堪能する。



写真やデュクの図面で知っていたがバランスの悪い不思議なファサードをしている。

11世紀から13世紀フランス中世の時期に、火災に合うなどして何度も改築を重ねていて、その後、宗教改革とフランス革命により大聖堂は人々に略奪、破壊され、ほとんど廃墟に近い状態だったらしい。それを、当時まだ改修経験のほとんどなかった若き日のデュクがその大役を引き受けることになった。この経験が後に彼の重要な著作『中世建築辞典』や『建築講話』として結実していくのである。

感慨無量でこの大聖堂正面ファーサードを眺める。

少し見ていくと、このバランスの悪さは右にあるはずのゴシック様式の第3層の塔屋が左に付いていないのがまず原因であることに気が付く。でもまだしっくりとこない。第1層、第二層、左右両側の部分の開口部は、半円アーチのロマネスク様式で、中央玄関のアーキトレイブは、新しい石でロマネスクの立派な彫刻がされている。それに対し、中央第2層はゴシック様式の尖頭アーチの細長い開口部にステンドグラスが嵌っている。ロマネスク様式をベースとして、その後ゴシック様式で改築していることが分かる。

ロマネスクとゴシックの建築様式の違う2つの様式が合体したものなのだ。
これがファサードの調和を乱している原因であったのである。

若き日のデュクは、建築様式の混在しているこの大聖堂でいきなり建築様式との格闘を余儀なくされ、デカルトの方法論を建築考古学に応用し、慎重に分析を進めていくことを思いついたのかもしれない。そしてその当時の彼自身が最良と思われる合理的な改築プロジェクトを纏めたように思われる。

当然、アカデミックな考古学者からすれば正確な修復でないとして非難を受けることは必至で、実際にデュクの改修には問題があるという批判が現在では一般的である。

しかし、千年以上の時を経た歴史的建造物は、創建当初から、各エポックのさまざまな条件の違いによって改築を重ね続けて今日に至っているのである。それをデカルト的方法で慎重に分析し、そして合理的にその建築を現在のあるべき姿に改修することは、知的で創造的な行為である。
デュクはそれが『真の建築家』の在り方なのだと考えたのだろう。

150年程前にこのデュクによる改修工事があったからこそ、今、私たちは世界文化遺産としてこの大聖堂を建築芸術作品としても楽しむことができるのである。

偉大な建築家、ヴィオレ・ル・デュクに感謝しなければならない。




ヴィオレ・ル・デュック 建築講話機1863) 飯田喜四郎訳 (1986)



ロマネスク様式の半円アーチの身廊天井部分とゴシック様式の内陣尖頭アーチの交差ボールト天井の接合部。


12世紀末にゴシック様式で改築され光に満たされた明るい内陣。



初期ロマネスクの後陣アプス部分。上部は飛梁を使いゴシック様式の内陣全体を採光の為の塔として創っている。ロマネスク様式の空間を後にゴシック様式で改築し、それが調和し融合している。いわゆる折衷様式ではない。




だから、土居さんのブログで『メタ概念としての建築(保存がモダンを生んだ)』に書いているように

19世紀の歴史的建築の研究→メタ概念としての建築→近代建築運動

と言うことに私も同感である。



これは地下礼拝堂にあるマクラダのマリアの聖遺骸(本物かどうか分からない)の入った美しい入れ物。

教会のパンフレットには、882年にプロバンスのサン・マクシミン聖堂から持ってこられたが、1267年にサン・マクシミンで新たに遺骸が見つかり、1279年にそれが本当のマグラダのマリアの聖遺骸として正式に承認され、それまでの聖遺骸は偽物として一気にヴェズレーの人気が衰える。その後、デュクの改修工事が終わってから、1870年、76年にマグラダのマリアの聖遺骸として正式にヴェズレーに贈られたものが、この中に入っているものであると。

マグラダのマリア自体伝説上の人物である。話題作『ダヴィンチ・コード』ではキリストの妻であり、子どもを作りその子孫が現在まで秘密結社により守られ『王家の血脈』として繋がっている。というヨーロッパの歴史上重要な女性である。今回の旅では、その伝説を生んだ歴史的理由なども自分なりに少し解明してみたいとも思っていた。

2人と1匹の家庭内反乱分子をヴェズレーの丘に残し、次なる修道院を目指し、さらなる建築探求の一人旅は続く。
| u1arc | 世界文化遺産 | 09:40 | comments(0) | - | -
三つ目のフランス世界文化遺産 スナン製塩工場跡         ―革命に『呪われた建築家』ルドゥー―


当初の予想通り、南米大陸で初めてのリオのオリンピック開催が決まった。

保守民衆(PP)党のマドリッド市長で国民的支持も得られず今ひとつ盛り上がりにかけていたマドリッドであったが、最終選考まで残ると一気に市民のお祭り好きのラテン血が騒いだ。サマランチIOC名誉会長直々の「もうすぐ89歳になるが最後の仕事として、是非委員の皆さんに私の国にお願いしたい。」という切なる願いと、その後に続いたカルロス国王の国民の声を代表したオリンピックロイヤルファミリーのスペイン語、フランス語、英語による格調高い熱のこもったスピーチでかなり委員の心を掴んだ様で、一発サヨナラ逆転、まさかという期待を抱かせた。

また、昨年の北京オリンピックのすぐ後の東京での開催は勝ち目は最初からないとは分かっていたものの、政権も変わったし、お金がかかっている映像のプレゼは一番良かったし、最終選考まで残れば期待してしまうのはやはり日本人なのであろうか。

先回の都知事選で故黒川紀章氏が北京のすぐ後に東京開催はありえないとして反対していたのを、150億円もの都民のお金を使ってまで強引に誘致に踏み切った石原都政の責任問題が浮上してくるのは必至だ。

サスティナブル(持続可能)でコンパクトな開催を目指したというが、結局そこにはビィジョンも理念も哲学もない後付の経済本位でハコモノ『抜け殻』政策で、現在の都民の生活意識からかけ離れたものであったと思う。

ビックイベントで国民の心を逸らし、都営バンクの破綻問題など都政の失敗を隠すというという昔ながらの政治手法は、政権も変わり、もうこれからは通用しないだろう。

日本を離れて外から見ていると、特に悪しきところが東京に住んでいた時以上に見えてきてしまう。


さて前回のフランスの旅の続きを続けよう。 

4時半ちょうどにヴェズレーの丘に到着。
古い中世の街をゆっくり犬連れで観光できたと晴れ晴れとした顔になっていた。

やはり世界文化遺産の丘は人を癒してくれる。来てよかった。

さあ、明日は今回の家族旅行の第一の目的であるルドゥーの製塩工場を見る為に、家族一致団結して早起きして行くことになった。昼食のご馳走で夕食も取らず早めに寝ることにする。

6時半にチェックアウトし,まだ薄暗い中セナンへ向かう。
高速道路に乗り、赤ワインで有名なボーヌの町を過ぎた頃に、シトー会、発祥の地Citeauxの修道院の表示がでる。
ブルゴーニュ地方は地中海都市マルセイユからローヌ川、リヨンで合流するソーヌ川をさらに北に遡った上流にある。そこは古代ローマ時代から川沿いに発展してきた肥沃な大地である。ギリシア、ローマの地中海文明がこの大河によって、北ヨーロッパの内陸奥深くまで影響を及ぼしていることが分かる。
フランスの修道院の原型といわれるクルニュー(Cluny)修道院も、この大河沿いのリオンのすぐ上のマコンという都市の郊外に建てられている。
今回の旅でCluny−−−>Citeaux−−−>Clairvauxの川沿いの関係が土地勘として理解できたのが収穫であった。

ベサンソン方面に向かいDoleの高速出口を降り、セナンまで田舎道で行く。7年ぶりであるが世界文化遺産にもかかわらず、ほとんど表示は見当たらない。森深いジュラ地方の田園風景の中、勘だけを頼りに9時過ぎに今回の旅の第一の目的地、ルドゥーの製塩場のメインゲートに無事到着。
10時開館なので余裕の到着であった。



メインゲート入口の建物。中央入口部分は、ドリス式オーダーのある重厚な石積みの古典主義の建築であるが、両側は勾配屋根の木の板で葺かれた大屋根のフランス田舎風の小屋を両ウイングとして左右対称にしている不思議な建築である。



近くに来ると入口部分は洞窟の入口の様な石組みである。まるでワンダーランドの入口の様だ。幾何学的で整然とした人工的な古典様式と自然の荒々しさのコントラストが際立ち、なにか不気味である。
そう、ここは恐竜時代ジュラ紀の名の発祥の地、ジュラシックパークの入口なのである。

フランス革命に呪われた建築家ルドゥーの計画
したものだ。商家の出ながら、その才能を見出されフランス最後の国王ルイ16世の宮廷建築家として活躍していたが、彼の重要な作品のほとんどが火災で燃えたり、革命の標的となって破壊されたりしている。それはルドゥーがパリに入ってくる人の為に高い税金を取り立てる関門を建てたので、革命を叫ぶ市民の標的になり、破壊され本人も捕まり牢獄に入れられたそうである。そして王様はギロチンされ、フランス革命により彼の輝かしい宮廷建築家人生は終わりを遂げる。
23年前にパリの友人の案内でラ・ヴィレットの関門の中まで特別に見せてもらったが、この建物ぐらいしかまともに残らなかったようである。
その後は、実現されなかった立体幾何学形態の異様なプロジェクトを数多く残す。

革命後このセナン王立製塩工場も閉鎖され、落雷で燃えるなどして廃墟であったのが、1926年に歴史的建造物として指定され、1932年になってようやく保存改修工事が始まり、現在ではユネスコの世界文化遺産として文化施設としてこのように立派に蘇った。





メインゲ−トを入ると正面奥にディレクターハウスが見える。まるでローマ神殿のような古典主義建築であるが、柱がメインゲートのようなドリス式ではなく,ルドゥー式とも呼べるような円柱の輪切りと角柱を積み木の様に交互に積み上げた不思議な柱をしている。それが軸線上にシンメトリーに乗っている。そこを円の中心として半円周上にメインゲートの建物と4つの同じ形をした建物が並んでいる。ディレクターハウスを舞台とすると、まるでローマの野外劇場の様だ。
7年ぶりに訪れた息子は,「これなんだよね。この空間がいいんだよね。」と嬉しそうである。
良かった。遠い所に連れて来た甲斐があった。ようやく彼も建築に興味を持ってくれたかなと親馬鹿になる。



まるで世界の中心のように建っているディレクターの邸宅。ルドゥーはこの建物を惑星の中心、太陽としてローマ神殿風にデザインしたに違いない。そしてその円周上にある建物はその周りを回っている水星、金星、火星、木星、土星の5つの惑星をイコンとしてシンボライズし、地球=>太陽=>神=>宇宙の大建築家=GAOTUとした独自の宇宙論で『世界劇場』を計画したのだろう。

そしてルドゥーはフランス革命により『宇宙の大建築家』に成りきれず、『呪われた建築家』になってしまったのだろうか。



積み木の様に石灰岩の円柱の輪切りと角柱の塊を積み上げたルドゥーオーダー。磯崎さんはこのルドゥーオーダーを知的に『引用』し秘教的なイコン『暗喩』を用いて、ポストモダン建築論を展開し世界的に影響を与えた。私もその影響を受けた世代の一人である。
ちなみに私の卒業設計のテーマは[How to make THE WORLD THEATER]であった。



円周上に配置されている建物の一つがルドゥ−の展示館になっている。プロジェクトの図面と模型、オーディオビジュアルのルドゥーの説明もあり親子で楽しんだ。右側のこの目の奥に描かれたベサンソン劇場プロジェクトの図面はやはり磯崎さんの本の中にあり、とても衝撃的なものであったが、その当時、東大の卒業設計の展示を見に行った時に青木淳さんがこれをモチーフに使っていたことを思い出す。やはりその後磯崎アトリエに行き、現在の建築家としての彼があるのだと思う。



「川の源流の見張り人の建物」





マツもこのルドゥーの幾何学の空間が気に入ったようで高見の見物。
| u1arc | 世界文化遺産 | 17:57 | comments(0) | - | -
フランス世界文化遺産                     −フォンタネ(Fontenay)シトー派修道院−   
思いがけずシャブリで美味しい昼食をゆっくりといただくことができた。上の売店でフルーティな気軽に飲める若いChabrisを3本買って時計を見ると1時半近くになっている。

ベルナールのシトー派の発祥地、クレルヴォ―の修道院へ行く計画だったが4時半までにまたヴェズレーの丘まで迎えに行くことになってしまったので、もう一つの世界文化遺産、フォンタネ(Fontenay)シトー派修道院へと向かう。

ブルゴーニュの起伏のある美しい丘の風景の中、Montbardを目指しひとり走る。気持ちいい。

Montbardの町に着き、そこから谷合の方に上がる。その谷の名はベルナール渓谷という。



ベルナールはこの辺りの騎士の家に生まれ、宗教の道に入ったらしい。クルニュー派の贅沢な教会の生活は本来のキリスト教の在り方でないと、自らベネディクト派を踏襲する厳格な規律の隠修修道会シトー(Citeaux-1098)派をロベールらと共に起こし、クレルヴォー(Clairvaux-1115)にベルナール自身の修道院を設立する。その次の修道院を生まれ育ったMontbard近くのこのフォントネ(Fontenay-1119)に創る。来る時に寄って来たナルボンヌ近くのFontfroideもカタルーニャの三姉妹(Sntes Creus, Poblet, Vallbona)もこの ベルナールのクレルヴォーの修道院から来たものであることが今回の旅で分かった。

この当時、ブルゴーニュとカタルーニャは、シトー派のベルナールの修道院を通じてかなり深い関係があったのである。

ベルナールは、テンプル騎士団を正式に承認するなど、十字軍騎士団に絶大なる影響力を持っていてヴェズレーの丘の北側斜面で第2回十字軍招集の宣言をしたことで有名である。彼が死ぬ1153年にはシトー派修道院は300箇所を数えるまでになったという。

たくさんの騎士団をエルサレムに送り込んだが、イスラムとの戦いに負け、『神はそれを望んだのだ』という名言を残している。何事も思い通りにはいかないということだ。


このシトー派の修道院がフランスでは現在唯一のユネスコの世界遺産に登録されている。修道院の保存状況もさることながら、ベルナール渓谷の自然との融合が審査の評価となったことがあげられている。

シトー派の修道院の特徴は人里離れた水場のある場所に自然の中に融けこんで建てられている。そこは祈りの場だけではなく、農耕作業の労働の場で自給自足の生活を行っていた。そして修道院で生産されるワインやビールなどの名産物を生み出し、売ることによってたくさんの収入も得ていたのである。また、ここでは川から水を引き込み水車を利用した水力システムで、近くで産出される鉄鉱石を使い鍛冶工房まで作られていた。それが模型で説明してある。








当時の最先端の知識と技術をこの修道院が持っていたことが分かる。

騎士団と共に修道会が後方支援をしてアラブ勢力と戦っていたことがうかがい知れる。



建築においても合理性が前面に表現されたようなデザインで、極力装飾を廃し、柱頭装飾を極限まで抽象化したような合理的なデザインとなっている。いわゆる建築家は入らず、修道院の直営工事によって建設が進められた。しかし、幾何学の原理に基づき、設計がなされていて統一と調和のある建築である。ロマネスクの重厚な空間が美しい。それをゴシック建築の特徴であるリブボールトで素朴に構造的に補強してあるのが、いかにも『真実の空間』という感じがする。
このロマネスク建築を構造的にリブボールトで改築補強していく過程でリブボールトが発明され、それがゴシック様式として進化、発展して行ったのかもしれない。















川の流れを利用した給排水システム、水力システムなどのインフラをきちっと最初に考え、修道院のプランが決められている。回廊には当時、泉で手を清める東屋があったが今はない。その復元図をデュクが絵にして残している。今はフランス庭園風に芝生できれいにしてあるが、当時はハーブなどの薬草が生えたもっと素朴で実利的なものだったに違いない。この修道院は千年近くもの歴史があるが、途中から王立修道院になり,そしてフランス革命期には78,000フランで売り飛ばされて紙工場になったりとオリジナルのシトー派の修道院のまま現在にあるのではない。

その後、20世紀初頭にこの建物に芸術的価値を見出したファミリーが改修して幸運にもほぼ現在の姿になったので、この建物が今日、世界的文化遺産になったのは奇跡に近いことだったことがフォンタネの解説書を読むことによって分かった。


結局、最後はその芸術的価値を分った人が、まず自分のお金と努力を惜しまず修復し残したのだ。

それを社会的文化遺産として繋げていけるかが重要なポイントだと思う。

フォンタネ(Fontenay)シトー派修道院は、フランス中世以降の歴史を背負ってきているという『歴史的建造物』のモニュメントなのである。


再び家族の待っているもう一つのフランスの世界文化遺産、ヴェズレーの丘へと向かう。

二つの重要な点と点が結ばれ線となり、そこからまた新たな歴史が見えてくる。
| u1arc | 世界文化遺産 | 00:16 | comments(1) | - | -
『 サクラダファミリアのAve(高速鉄道)トンネル問題』のその後
サンクガットの街にも日焼けしてバカンスから帰ってきた人が増えてきた。



8月22日付、スペインの有力紙『LA VANGUARDIA』にサグラダ・ファミリアの下を通すAve(高速鉄道)トンネルの報告で、『スペイン文化省はユネスコ(世界文化遺産審議委員会)をごまかした!』という個人意見広告が出た。

2年前に書いたプログ『サグラダ・ファミリアご受難の門 市民の怒り 秘数は33』には、「今までの計画を変更し、新しいルートに変更するしかないように思える。」と書いたが、この間の動きを見ていると、一度決められた国家プロジェクトの決定はもう変更は不可能という感じで強行されてきた。

それが今回セビリアで行われたユネスコの審議委員会での『Ave(高速鉄道)トンネルがサクラダ・ファミリアに及ぼす影響』報告で、スペイン文化省の責任者が「この計画以外の選択余地はなかったことと、地下トンネルからサグラダ・ファミリアの距離が61mあり、適当な距離が60m以上としている基準に合致している。」
という説明がなされたという。

現在の時点で既にトンネルは掘り進められていて、後戻りができないという状況下での説明である。

そこで、この広告主はこの説明がいかに虚偽に満ちたものであるかをサクラダ・ファミリアの写真を使い明解に説明している。

トンネルの位置はサクラダ・ファミリアの真下で、ガウディの生前に建築したご生誕の門までは33m、61mは門の中心までの距離でありごまかしであると。(上部写真参考)

また、ルートにしてもこれ以外に問題の少ない4ルートがあり、このルート以外なかったというのは本当でない。

さらにこのユネスコへの報告書をまとめる為に、このプロジェクトにかかわっている優秀な技術者達への100万ユーロ(約1億円)の費用と6ヶ月の時間がかかっている。

このプロジェクトにかかわっていない建築家、技術者達はみな今回の計画に疑問を持っている。

そして最後に、「必要もないのに、スペイン文化省が人類世界文化遺産に深刻なダメージを与えかねず、また付近住民の住まいを脅かす危険きわまりないこの計画を擁護するのは大変残念なことである。」と結んでいる。

私もこの意見広告にまったく同感である。
今までの経緯見ていて、一度決められた国家規模のプロジェクトの決定はフィードバックがきかず後戻りできないので、重要な決定の前には十分な議論、検討が必要だということを実感する。

それが、無駄な費用を抑え実現への近道になることを今回の問題でも教えてくれる。

!急がば回れ!である。

ようやく後3日で日本の将来を決める重要な選挙があるが、『沈みかけている日本を救うプロジェクト』に早く着手してもらいたいものだ。


| u1arc | 世界文化遺産 | 17:16 | comments(0) | - | -
犬山の国宝 シロ(城)とジョアン(如庵)


           国宝 茶室『如庵』


先日、一時帰国した際に桜の花が満開の犬山市を訪れた。
これだけの満開の桜を見たのは久しぶりであった。


          犬山城 堀沿いの桜


8年前バルセロナのユネスコの講演会『日本建築空間の特性とその歴史』で、留学中でスライドの手伝いをしてもらったI君が、今は明治村で建築を担当していることを知り、案内してもらえることになったのである。

私の修士論文の研究テーマが『明治中期における建築芸術思想』であったので、明治村の建築は興味があったが今までなかなか行く機会がなかった。有楽町にあったフランクロイドライトの帝国ホテルも移築してあると聞いていたが、当時、明治村が『明治近代以降の建築の墓場』というイメージが強かったので、今ひとつ意識的に自分の中で遠ざけていたのかもしれない。

そして今回バルセロナでの I君との縁で、東京から少し遠いいがエイヤッ!で桜満開の犬山、岐阜の旅が実現した。



犬山の町に行って驚いたのが、こんな小さな町なのに歴史的建造物の国宝が2つあることであった。



犬山のお城と有楽苑内にある茶室『如庵』である。
日本のライン川と言われる木曽川沿いにあり、川沿いの山の聳える犬山のお城もライン川沿いに在るローレライの古城のように風光明媚な所にある。





その国宝を両手に抱えるように一番良い所に名鉄犬山ホテルが建っている。昭和モダンの雰囲気のある風格のあるホテルで、塔屋が天主閣の如く背が高い。どこかで見たプロポーションだと思う。そう、スペイン大使館を設計している時にお世話になった斜め前にあるホテルオークラのプロボーションにどことなく似ている。それもそのはず、今話題の中央郵便局を設計した逓信(郵政)省の建築家、吉田鉄郎の流れを汲む小坂秀雄であった。そしてホテルオークラの和風大ロビーのデザインは初代明治村館長の谷口吉郎が担当している。名古屋の建築デザインはスパニッシュスタイルと『建築の遺伝子』上、繋がりがあることが今回の大発見であった。(『建築の遺伝子』鈴木博之著p.156、208−219参照。)

それで国宝の茶室『如庵』も、もしかしたらヨハネの福音書の『ヨハン』から来ているのではないかと、ふと思いついた。スペイン語だと『フアン』であるが、ポルトガル語、カタラン語だと『ジョアン』なのである。織田有楽斎は利休の茶人で7仙人とまで言われた人である。その頃の安土桃山時代スペイン、ポルトガルからイエズズ会修道士が日本に布教に来ていて、有楽斎もキリシタン大名で,『如庵』と名乗っていたらしい。この如庵が洗礼名の『ジョアン』と考えられる。その時の宣教師の中にポルトガル出身のジョアン・ロドリゲスという宣教師がいて『日本大文典』『日本教会史』という本を書き表しているので、有楽斎とは親交があったように思える。

やはり予想通り『如庵』は『ジョアン』から来ていたのだ!!!

安土桃山文化はかなりスペイン、ポルトガルの文化、カルロスI世(神聖ローマ皇帝カール5世)、その子フェリッペ鏡い離茵璽蹈奪僖襯優奪汽鵐絞顕修反爾ご愀犬あったのだということが分かる。その重要な関係を取り持っていたのはイエズズ会宣教師たちなのである。

日本の『侘び』『寂び』でない華美な安土・桃山文化は、実はヨーロッパルネッサンスの正統の遺伝子=王家の血脈も繋いで来ていることが確認できたと、ホテルの露天風呂で朝湯に浸かりながら、日本の老舗温泉ホテルの素晴らしい和と洋のモダンな文化を楽しんだ。

外国の良いものを取り込みながら、新たな日本の文化に昇華する『日本美の再発見』の旅であった。




「まるで美術館の壁にかかっている風景画のような絵になっている。」
ホテルの部屋から満開の桜の日本のライン川=木曽川の眺め。



吉田鉄郎の中央郵便局の昭和モダニズムの合理主義の流れを汲む郵政建築家小坂秀雄の建築デザイン。柱間に腰壁とガラス窓を全面にいれ水平性をベースとしながら屋上庇までの通し柱で垂直性を出し、さらに屋根の乗った亀甲模様の白い壁の階段、エレベーターコアを屋上階から2階分突出させ垂直性をさらに強調したデザインをしている。このデザインは国宝犬山城の天主閣をイメージしているように思う。
合理主義建築ながら、機能主義建築を超えた建築イメージ、デザインを考えたプロポーションと材料の選択、抑えたディテール装飾となっていて、とても風格ある建築である。
今、老巧化ということで建て替えが検討されているとのことであるが、何とかこの風格を維持しながらの改築、改修してほしいと思う。
今問題となっている東京中央郵便局の改築のようなことにはならないでほしいことを祈るばかりである。



有楽苑入口。この苑内にある国宝の茶室如庵は数奇な運命を辿ったと『建築の遺伝子』前出(鈴木博之著)に書いてある。
最初は京都の建仁寺にあったのが、明治維新後、三井家に売却され東京に移築された。その後、大磯の別邸に移築され戦火を逃れ、昭和45年(1970年)に名鉄所有となりここ犬山の有楽苑に移築され、現在もなお国宝の茶室として評価され続けているという。



     如庵 平面図(茶道全集巻の三 創元社より)
















| u1arc | 世界文化遺産 | 19:19 | comments(2) | trackbacks(0) | -
世界文化遺産の古代ローマ都市 タラゴナ(Tarragona)
昨日は二ヶ月ぶりに纏まった雨が降った。そして気温が一気に4度まで下がった。まだ体が寒さに対応できていない。

今日のLA VANGUARDIA紙のトップ記事に『バルセロナでは、26日(日曜12時)の気温22度から29日(水曜12時)7度この3日間で15度下がった』とこの異常気象のことが書いてある。

いつものように犬の散歩に近くの森に行くと、近くの海抜1700mのモンセン山の頂上付近は真っ白に雪を被っているのが見える。今年の秋は雨が降らず、ポカポカ陽気が続いていたので今まで全くキノコの気配がなかったが、これから期待できそうである。

先日、ミロとロヨのタピストリー展を見るために久しぶりにタラゴナの街に行ってきたが、この街はイベリア半島最大の古代ローマ都市があったところで、今ではユネスコの世界文化遺産に登録されている。

ちょうど21年前の今頃、バルセロナポリテクニック大学(UPC)のサルバドール・タラゴ教授の建築学部のドクターコース(歴史的建造物の分析と再生)で初めての建築遠足でタラゴナを訪れた。浜辺に建つ円形劇場、古代ローマの巨大遺跡群を見て興奮し、熱心にスケッチしていたことを昨日のように思い出す。あまりに熱心だったものだから、コロンビアの女子留学生たちにいろいろスペイン語で話しかけられたが、その返事に苦労していたような気がする。
楽しかった留学生時代の思い出として残っている。



ここが古代ローマ歴史博物館のアクセス入口。当時タラゴナはタラコ(Tarraco)と呼ばれた。大きなライムストーン(石灰岩)の重厚な石組みで積まれた城砦。茶色に変色した石が歴史を感じさせる。



ブリッジデッキのアクセス。まるでピラネージの版画のようなローマ古代遺跡群。



古代ローマ都市誕生伝説、狼に育てられた双子のモニュメントがある。



ローマ時代の城壁は12mの高さがあったが、中世12世紀になるとそのまま建物の外壁として使ったので、壁には木の梁を掛けたほぞ跡がそのまま残っている。





映画『ベンハー』でチャールストン・へストンがローマ皇帝と大勢の市民の観客のいる戦車競技場で戦うシーンがあるが、その戦車競技場の遺跡。この競技場には約23,000人の観客が収容できたらしい。模型は15世紀中世期のタラゴナの街であるが、まだ全体の形は残っている。現在は右端一部が歴史博物館となっていて、当時の様子が建物の壁に描かれていてそのイメージがわかる。左の部分はローマのナボナ広場のような細長い広場になっていて、今でもその面影は残っている。ローマ時代以降2000年の時間が経っているが、ヨーロッパのほとんどの都市は古代ローマの都市構造をベースとしながら、都市再生を繰り返してきたことが分かる。ローマ神殿があったところは、現在ではゴシック様式の教会が建っている。



競技場地下に掘られた長い廊下。350mほどある。



城壁から海の眺め。このすぐ下には、有名な海辺に建つ古代ローマ劇場跡がある。その劇場跡の舞台部分には、ローマ遺跡の石を使って12世紀に建てられたロマネスク寺院跡がある。



2年前はラサール大学で『日本建築2000年の歴史』サブテーマが「出雲大社から伊東豊雄の作品まで」の建築イベントを企画しオルガナイズした。その一環としてラファエル・モネオ設計の古代ローマの石組みをそのまま残した、タラゴナの建築家協会のコンファレンスホールでスペイン語で講演することとなったのである。
20年経てばそれなりにこなせるようになるのだから、『好きこそものの...』で、ローマ遺跡の中で日本建築の歴史について講義できたのはたいへん光栄なことであった。





| u1arc | 世界文化遺産 | 20:30 | comments(0) | - | -
世界文化遺産 ケルンの大聖堂とサグラダ・ファミリア


ケルンのスペイン語名はコロニア・グエルと同じコロニア(colonia)で、ローマの植民地であったことからそのように呼ばれるようになった。1984年からバルセロナ市と友好都市になっていてケルンとは不思議な縁で結ばれていることが分かった。
二つの都市に共通していることは、バルセロナもローマの植民地であったこと。レジェス・マゴスに熱狂的。そういえば、現在建設中のサグラダ・ファミリアは完成するとケルンの大聖堂を抜き高い世界一の高さの教会となる。共に現在ユネスコの世界文化遺産である。
ケルンの大聖堂は1248年に焼失してしまい、その年から天に向かって聳え立つゴシック様式の大聖堂の建設が始まった。そして、262年後の1510年には、ルターのプロテスタント宗教改革でカトリック教会の力が弱まり、建設資金がなくなって工事は中断してしまう。その後300年以上経ち、19世紀半ば、ドイツに近代化国家が誕生し再び中世への熱狂がゴシック教会再建、ゴシックリバイバル運動へと気運が高まり、またドイツ皇帝の強い協力もあって1880年に完成した。完成まで600年以上の歳月がかかって、世界一高い石積みのゴシック様式の大聖堂が完成したのである。
ガウディはこのエポックに生まれ育っている。このケルンのゴシックの大聖堂を目標に、「将来バルセロナにケルンの大聖堂の抜き世界一高い建築を建てるぞ!」という幼年時代建築家への夢を持ったのかもしれない。ゴシックリバイバルの建築思想的師匠のヴィオレ・ル・デュクの『中世建築事典』を座右の書として、独学し、最終的にサグラダ・ファミリアのような、ゴシック建築様式を超えたガウディ独自のスーパーゴシック様式に辿り着いたように思う。サグラダ・ファミリアの高さはケルンの大聖堂よりも10mほど高い174mに計画されている。ガウディが計画した時点では、世界一高い建築だったように思える。ただ、ガウディもケルンの大聖堂が完成するまで600年以上の時間がかかっているのを知っていたはずであるから、後、20年程で鉄筋コンクリート造で出来てしまうのを知ったらビックリするのではと思う。
サグラダ・ファミリアは、もう今出来ても世界一高い建物ではないが、もし石積み建築で造っていたら、世界一高い石積み建築だったのに残念!と思うのは私だけだろうか?

| u1arc | 世界文化遺産 | 12:41 | comments(0) | trackbacks(0) | -
ケルンの大聖堂には東方の三賢王が眠っている!?


レジェス・マゴス(東方の三賢王)からたくさんのプレゼントが届いたらしく、ゴミ置き場にはたくさんのオモチャのダンボールの空き箱が積まれてあった。この王様の日が終わると、街はようやくクリスマス気分が抜け、普段の生活に戻る。
そういえば、NHKの世界遺産でケルンの大聖堂に三賢王の聖櫃があると鎌倉アナウンサーがレポートしていたのを思い出した。ケルンの大聖堂は5年前アムステルダムに行った時に寄った。駅前に聳え立つゴシック教会を見上げて写真を撮ったが全体が収まりきらないし、建物のプロポーションが悪く、あまり美しくないし今一つ興味を持てなかった。169mの世界一高いゴシック教会建築というので、塔の天辺まで登った記憶しか残っていない。この2枚の写真はその時の写真。
先日の王様の日のスペイン人の熱狂する姿を見て、三賢王に急に興味が湧き、なぜ伝説の三賢王の聖櫃をケルン大聖堂が持つようになったかを知りたくなった。金にたくさんの宝石のちりばめられた聖櫃はいかにも本物らしいが、はたして伝説の三賢王は本当にいたのだろうか?
| u1arc | 世界文化遺産 | 18:47 | comments(0) | trackbacks(0) | -
エルチェの貴婦人(la dama de elche)が発見された場所




今回のアリカンテのへの旅行で、思いがけず『エルチェの貴婦人』の発見現場を見ることが出来た。本物は15年前、マドリッドの国立考古学博物館で今は亡き母と一緒に見た事が思い出される。スペインがローマの植民地になる前の紀元前4〜5世紀のイベロ人の彫刻で,巨大なヘッドホーンのような不思議な耳飾をしているギリシャ風の美しい女神胸像であった。
何のインフォメーションも持たず、エルチェに行けば何か見られるはずと行き当たりばったりの観光であった。街の中心部に車を止め、観光案内所を見つけ、案内嬢に尋ねる。すると「今日は休日なので博物館は残念ながら閉まってしまっているけど、エルチェの貴婦人の発見された場所は3時まで開いています。そこにはコピーの彫刻が置いてあります。」というインフォメーションをもらう。時計を見ると既に2時を回っていた。急いで車に戻り、街中にある椰子の森の横を抜け、2キロ程南に下がったアルクディア(alcudia)という所まで行く。
もらった観光案内のパンフレットを見ると、エルチェの街は、貴婦人の彫刻でも有名であるが、紀元前2世紀からの椰子園とマリア昇天祭で2001年にユネスコの世界文化遺産になっていることがわかった。とすると、さっき通ってきた立派な椰子の森は世界文化遺産だ。当時のアラブの高度な灌漑技術(写真3)により、現在までにオアシス状の椰子の森が,スペインでは珍しく形成されたらしい。またマリア昇天祭は,いろいろ調べてみると、ハイメ1世がエルチェの街をレコンキスタしたころから続いている祭だと言う。キリスト勢力が敵を打ち破った後、戦勝記念のお祭として市民の間で行っていたものらしい。それを、300年後の16世紀に、正式にカトリックの祭礼、Misteri d'Elxとしてサンタ・マリア教会で執り行われることになったようだ。そう言えば、第二次世界大戦で広島、長崎に原爆を落とされ、日本の国土は焦土と化した。そして8月15日は日本からすると敗戦記念日である。丁度マリア昇天の日に合わせて欧米連合国が決めたのだろう。サンタ・マリア教会はアラブの教会メスキータのあったところで、1265年にハイメ1世にレコンキスタされたとある。ハイメ1世はポブレーからこんな遠くまでアラブ勢力との戦っていたのだと思うと、『征服王』と呼ばれるのももっともであると納得する。それにしても奥深いヨーロッパの歴史の因縁から学ぶものは多い。
しばらくして、エルチェの貴婦人が発掘されという広々とした場所に着く。そこは紀元前5世紀からのイベロ人の村の遺跡で、2世紀頃にローマ人が侵略し、アラブ勢力が侵略してくる8世紀までの遺跡が埋まっている。その中には、イベロ人の寺院、ローマ時代の寺院が並んで発掘されている。住居跡、温泉施設の遺跡もある。その中に、『エルチェの貴婦人』が発見された場所があった。モダンなコンクリートの壁と庇の祠の中に、(レプリカではあるが)地面から胸から顔を出していた!
本物は100年程前にここの農民によって発見され、その後当時のお金で4000フランでフランスのルーブル博物館の所有となり、第二次世界大戦後になってようやくスペインに返還されたという歴史がある。石灰岩に掘り込んだもので、赤、青、金色、白などきらびやかな装飾的な彩色が施されてていたことが後の研究で分かっている。

15年前にマドリッドの考古学博物館にあった、あの美しい『エルチェの貴婦人(la dama de Elche)』の生れた場所に、ついに来ることができたという喜びがあった。


| u1arc | 世界文化遺産 | 12:35 | comments(0) | trackbacks(0) | -
カタルーニャロマネスク 『エヴァンゲリオ(四福音書)』「良い知らせ」





今年のバルセロナの夏は涼しい。今日の朝の気温は14度で半袖では寒いぐらいだ。毎朝近くの森へダルメシアン3匹と散歩に行くが、犬たちも涼しいので元気一杯に森を駆け抜けている。毎年この時期ピレネーの山まで避暑に行っているが今年は必要なさそうである。
 毎年ピレネーへ行くとロマネスク教会を訪ね歩いているのであるが、本物の壁画は剥がされカタルーニャ美術館に展示されている。
(先週行った時の写真。カタルーニャ美術館からスペイン広場を見下ろし、ティビダボ山のフォスターのテレコムタワーを望む。8月の中旬だと言うのに、バルセロナの街には空には雲が湧き、もう秋の気配である。)
そのロマネスク美術コレクションでは、世界屈指と言われている。その中でも有名なのが、世界遺産にも登録されているボイ渓谷にあるタウイのサンクレメンテ教会のフレスコ壁画である。急にそれが見たくなり、先週久しぶりに見てきた。2番目の写真はその時のもの。教会内部、アプシス(後陣)部分の半球ボールトが再現されていて、オリジナルの壁画が展示されている。その真中に描かれたキリストは何かユーモラスで素朴で人間味がある。カタルーニャロマネスクは、11世紀の始めに東ローマ帝国のビザンチン文化が、地中海交易を通じ、南仏(当時のアラゴン=バルセロナ伯爵領)にもたらされたものと考えられている。それ故にギリシア正教のイコンの宗教画の影響が濃い。今回気になったのが、そこに描かれている翼を持ったライオンと同じく翼を持った牛の絵である。翼を持った人間であれば天使と見過ごしてしまうのであるが、ライオンと牛に翼は変である。このタウイの壁画ではキリストの足元に4つの翼を持った人と動物たちが描かれている。それらは、どうもエヴァンゲリオ(四福音書)のイコンとして描かれたらしい。左からライオンに翼がマルコ、人に翼がマタイとヨハネ、牛に翼がルカと思われる。ヨハネは鷲のイコンで描かれることもある。これらのエヴァンゲリオも東ローマ帝国のあったコンスタンティノポリスで新約聖書という形で編纂され、西側にキリスト教会の教えとして広まったらしい。マタイ、マルコ、ルカは共観福音書といって、ヨハネ以前に作られていることもわかっている。そしてヨハネの福音書だけがキリストを神の子として書いていて、キリスト教の権威を高めようとしている意図が見られる。ここで、キリスト教が国教であることが認められたのである。それ以外の宗教は、偽物、異端とされ、これ以降キリスト教が、国と国の戦争の理論的根拠となり、聖戦という形を取りヨーロッパ中世の戦国時代を迎えることになった。
 3,4,5番目の写真はサンテス・クレウスの聖棺である。4番目の写真の床の石版の下には、エジプトの浴槽形石棺に入っているペドロ3世に仕えたロヘール・デ・ラウリア提督が眠っている。(当初、このロヘールがホワイトナイトのサン・ジョルディ伝説の人でないかと思ったが、やはり、いろいろな資料やモンブランクとの関係から考えるとアラブ勢力と戦ってバレンシアで死んだ征服王ハイメ一世がジョルディとではないかと思えるようになってきた。)4面ゴシックの尖頭アーチの石の彫刻で囲われているが、その4隅上部にに翼を持った人、ライオン、牛、鷲の彫刻がある。こららは、エヴァンゲリオのイコンである。中世キリスト教会がいかに4福音書を重要視していたかがわかる。ユダヤ人、アラブ人だけでなくこの聖書に従わないものは、異端とされ磔、火炙りにされ多くの人々が処刑された。
キリスト教の正統、異端論争、闘争の歴史がヨーロッパの歴史を作ってきたということを、エヴァンゲリオを調べていくことで身近に感じられるようになった。エヴァンゲリオをスペイン語でブエナノティシア(buena noticia)というが、日本語では、「良い知らせ」という意味である。
| u1arc | 世界文化遺産 | 06:49 | comments(0) | trackbacks(0) | -
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