バルセロナ建築漫遊記

バルセロナからの気ままな発信です。
2013年 バルセロナより新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

今年2013年もバルセロナでおせち料理を作り新年を迎えることができました。
バルセロナでは新鮮な食材を街の市場で手に入れることができます。
その中でもクリスマスシーズン、豊富で良い食材の集まるランブラスのボケリアの市場へ市民は買い求めに行きます。

私もバルセロナ郊外のサンクガットに住んでいるのですが、毎年、特別にアイスボックスを持って車で買い求めに行っています。

クリスマスにはこのマヨルカ島産の大きな伊勢海老2匹を、そして大晦日には3.7キロのガリシアの大ダコ、2キロ近くあるサクラ鯛(スペインでは黒っぽい鯛をドラダ、サクラ色の鯛をベスーゴと呼ぶ。)
車海老大と中生きたもの12匹づつと鴨肉2パックの買い物でした。今年は不況のせいかレストランでなく家で過ごす人が多いようで、たくさんの人で身動き取れないほど市場は混んでいました。去年に比べ、曜日と漁に恵まれたせいか素晴らしい食材が手に入りました。



クリスマスにいただいた伊勢海老。
生きたものを真っ二つに包丁で割って、そのままオーブンで焼きマヨネで食べる。
豪快な食べ方であるが、それが伊勢海老の一番美味しいべ方であると思う。

その食材を使った2013年のおせち料理。
今年は息子の友達2人だけであったので、家庭的なお節。

1.鯛の刺身
2.タコの刺身
3.車海老
4.柿なます
5.ダシマキ卵
6.鯛カマボコとマヨネ明太ソースがけ
7.ほうれん草の胡麻あえ
8.鴨肉オーブン焼き 特別ソースかけ

御屠蘇
CAVA Brut Nature
ワイン 2006年 Priorat

デザート
buboのTURRON
仙台銘菓 萩の月(息子の友人の日本からのお土産)



マツとランが欲しそうに覗き込んでいる。
江戸中期の若狭塗りのお重に入れられたお節料理。右のシャンペンクラスは昨年プラハのお城で買い求めたボヘミアングラスの火の鳥のカットグラス。古伊万里の須恵器に添えられた柿なます。



 




手前、古伊万里の彩色陶器に漏られたガリシア産大タコの酢の物。
奥、チェコの陶器に鴨肉をトーストして特性タレをかけたもの。



立派な大鯛の姿作りの刺身。
スペイン、ビスバル製の大皿に盛り付け。

世界に誇れる日本の食文化。
日本の正月をスペイン、バルセロナで迎え27年目となる。
日本人に生れて良かったと思える時である。

さあ今年も頑張ろう!
| u1arc | バルセロナの街 | 21:10 | comments(0) | trackbacks(0) | -
昨日9月18日は『パリからバルセロナへ』到着26年目の記念日
昨日9月18日は私たちのバルセロナ到着記念日である。

26年前、パリでルノー5のかなり走り込んだ中古車を15万円ほどで買い、一般国道をリモージュ、カルカソンヌと2日かけてひたすら南下し、ピレネーを超えてバルセロナまでの1200キロの道のりを、当時8ヶ月の身重の妻と一緒に辿り着いたことを今でも鮮明に思い出す。
(筑波万博での国連館爆破解体を終えて、バルセロナまでのエピソードは2004年5月の建築雑誌『新建築』STAND POINTというコラムにも掲載された。)

そして夕方近くにバルセロナに着き、港近くのホテルの前に車をとめて夕食から戻ってきたら、車の中の荷物はすべて盗られていた・・・

到着初日待っていたのは厳しいバルセロナの洗礼であった。

あれから26年。いろいろなことがあったが、このバルセロナで建築家としてやっていられるのは、ガウディが生涯追い求めていたような奥の深いarquitectura=西欧建築への想いと、バルセロナの街の恵まれた環境のせいであろうかと思う。


世界中のメディアにも9月11日のカタルーニャの祭日Diadaでの150万人デモが報道されているように、バルセロナではindependencia=独立気運が高まっている。

今までは自分はカタラン人でないからという理由でこの式典までは実際に見たことはなかったが、このところのスペイン経済危機でカタルーニャの民族意識が高まっているのを感じ、今年はバルセロナの街にくりだし市民と共にこのDiadaを体験してみることにした。



メトロのarc de triomf=凱旋門駅を上がると人が続々と集まってきている。ESTELADAといわれるカタルーニャの独立国旗が巨大なレンガ造の凱旋門の入口いっぱいにはためいている。その下では当時の衣装を着た軍隊が銃を持って整列し、オーストリアの宮廷風の指揮官が命令を下しているようなテアトロをしている。




どうもここが起点となり式典が始まったらしい。
このムデハール様式のレンガ造の凱旋門は1888年、バルセロナ第1回目の万博の時に造られたものだ。今はシウダレラ公園となっていて白ゴリラのいた動物園としても有名であったが、1714年の継承戦争の時は、ここの城壁がフェリペ5世スペイン国軍に破られ、バルセロナの街が攻め込まれ占領された因縁の所である。占領された後にはシウダレラという外城がバルセロナの街に幾何学的な寄生虫の如く取り付いていた。それを19世紀中頃の産業革命で地方から人口が流入し、カタルーニャ復興運動(レナシェンサ)の高まりと共に、外側の城塞を取り壊すバルセロナ拡張計画=セルダのエンサンチェプランで整備された。

このレンガ造の凱旋門も、REPUBLIC=共和国の象徴であるパリの凱旋門に倣って、スペインアラゴン地方によく見られるのムデハール様式で創られのではないかとふと思い付いた。
多分この門には当時のアラゴン・カタルーニャ共和国の想いが込められたものであったのだ。

よく見てみると、両脇に2本ずつ4本の付柱が上まで通っている。その上には王冠がそれぞれ付いている!
これは正しくアラゴン・カタルーニャ王国の紋章で、それぞれの柱はアラゴン(サラゴサ)、カタルーニャ(バルセロナ)、バレンシア(バレンシア)、バレアレス(パルマ デ マヨルカ)の4つの都市国家を表したものだ。



この夏のバカンスでは26年ぶりにパリに1週間ほど滞在し歩き回った。その時に撮ったパリのエトワール広場の凱旋門。

ここから星型放射状に12本のAvenue=並木のある大通りが拡がる。そのうちの1本がシャンゼリゼー通りで、ルーブル宮正面ファサードの中心軸となっており、現在はルーブル博物館の入口のガラスのピラミッドを原点としてルーブル宮入口に建つ古代ローマのセプティミウス・セルウェス凱旋門を模して造られた第1のカルーゼル凱旋門からこの第2のエトワール凱旋門のアーチを通過し、デフォンスの第3の凱旋門と言われるLa GRANDE ARCHEまで延びている。



ルーブル宮正面ファサードの中心軸と現在のルーブル博物館の入口のガラスのピラミッド。



古代ローマのセプティミウス・セルウェス凱旋門を模して造られた第1のカルーゼル凱旋門。

ナポレオンによる古代ローマーーー>共和国ーーー>ミッテラン20世紀大パリ近代化国家を凱旋門でシンボライズするパリの一番重要な歴史都市軸となっている。

今回の旅行では世界の観光地『花のパリ』という以上に、18世紀末に王政から市民革命を経てREPUBLIC=共和国を最初に成し遂げたフランスとその都市計画とモニュメント建築を中心に見て回り、近代国家を生み出した共和制の重要性を確認できたことが収穫であった。

古代ローマのティトゥス帝の単一アーチ凱旋門をベースにして50m近くの高さまでそのまま拡大し、フランス市民革命後に共和国のシンボルとして造ったものである。マッス=ボリュームのプロポーションは同じでもオーダー柱、装飾のないのっぺらぼーの表面にレリーフ彫刻を施したものなのでヌボーとデカイ感じがして建築尺度的には締まりないと思う。

ルーブル博物館のM.I.Pei設計のガラスのピラミッドから南北軸=子午線を降ろしてみると、それがダヴィンチ・コードで有名になった丁度1672年にクロード・ペローによるパリ天文台を通るローズラインとなっていることが分かった。
これがルーブル博物館ニケの彫像の近くの床に打ち込まれているのを見つけたARAGOの記念メダジョン。



このローズラインはバルセロナまで繋がっていく。それを実際に測量したのがアラゴン・カタルーニャ貴族で南仏のペルピニアン出身の天文学者で19世紀の初めにダンケルク、パリ、バルセロナの子午線上を実測して回ったのがフランソワ・アラゴである。1830年パリ天文台長になりドームの観測所を屋上に設置する。また、共和国政府時代にはフランス歴代25代の大統領にもなった。



パリ天文台。クロード・ペロー(1667−72)このファサードの中心軸がパリ子午線=ローズラインとなっている。左屋上にあるドームはアラゴにより1830年に創られた。

この時にパリーーー>バルセロナのRepblic=共和主義はローズライン上に引かれていた。

話はパリの19世紀の共和国時代まで行ってしまったが、バルセロナに戻そう。



1714年継承戦争で命を落としたDiadaのシンボルラファエル・カサノバの像に向かって行進する兵隊達。いでたちからして1711年に神聖ローマ皇帝になったカール6世率いるオーストリア軍のようだ。



カサノバ像の前でカタルーニャ伝統の人間ピラミッド=カステジェスを披露している。



手を上げグルッと一回りして参ったカタルーニャの市民に挨拶。



黄色地に赤の4本線のカタルーニャの横断幕と花束を持って続々と市民がやってくる。



カサノバ像の前に置かれた花で飾られたたくさんのカタルーニャの紋章。午前11時半近く。
これから午後にかけてもカタルーニャ中から参列者が続く。





カタルーニャ独立の旗を振る若者。老若男女世代に分け隔てなくどんどんと人が集まってくる。
午後にかけても集まってくる人は途絶えることなく、カタルーニャ広場を中心として、通りは身動き取れないほどに膨れ上がった。

この日集まった人たちは150万人を超えたという地元警察の発表であった。
独立!独立!と過激に騒ぐのではなく、カタラン文化を共有する楽しいお祭り気分の人々であった。

スペイン経済危機で9月から付加価値税がさらに21%にも上がり、それを全てマドリッドの中央政府に持っていかれてしまうというカタラン人の抗議のマニフェストのように見えた。

これからカタルーニャは共和国独立の方向へストレートに行かないと思うが、もし、このまま中央政府が頼りなくEU離脱の危機が来たら、独立してEUに残る道を取るに違いない。

| u1arc | バルセロナの街 | 13:30 | comments(0) | trackbacks(0) | -
ウィーンバロック建築はバルセロナに由来する!・?・!

今朝起きてカーテンを開けてみると、前の家の屋根には薄っすらと雪が積もっている。
このところのヨーロッパの寒波の襲来でバルセロナにも雪が降るのである。

昨日の朝の犬との散歩では、いつも連れて行っている谷がイノシシ狩の為に一般立入り禁止となっていたので、久しぶりにダム湖を抜け山の稜線に出るコースを行く。
バルセロナの街の背後にあるティビダボ山の向こうに広がるコイセローラの山は、−7°まで冷え込んで、森の奥にあるダム湖はこのように凍っていた。
 


13歳の誕生日を迎えたばかりのベル。さすがに車に飛び乗ることができなくなってきたが、まだ森を一緒に散歩できる。13年間、毎日のように共にこの森を過ごした愛犬だ。


先日(1月22日)の日曜日に毎年恒例のサン アントニオのバレードが行われた。
いつものように愛犬たちとテラスに出てサン アントニオの祝福を受ける。


かぼちゃをたくさん積んだ馬車に、うまい具合にバランスを取っている犬が可愛かったので、思わずシャッターを切る。


マカロニウエスタンの悪役っぼいサングラスをかけたオジサン3人組が登場。


彼等が狙っていたのは、アンダルーシアの乗馬服と帽子と水玉のフラメンコ衣装でかっこよく決めた2人娘か?

マカロニウエスタンというのはジョン・ウエインに代表される西部劇ウエスタンにたいして、フランコ・ネロの『夕陽のガンマン』などに付けられたもので、イタリアン=マカロニとなったのであるが、実際はスペインのアンダールシア近くのムルシアに映画村を作り、数々の作品を撮っていたらしい。白い壁造りの家々に荒涼とした風景=荒野が広がっていた。中学生時代、あのニヒルなフランコ・ネロの早撃ちの銃捌きに憧れ、学園祭でその風景の中での決闘シーンを大きな絵に描いたことを思い出す。『ミツバチのささやき』『エル スール』のスペイン人名監督ビクトル エリセも若い時にこの映画村で学んだらしい。

こちらで放送されているBSテレビの旅番組で、宇津井健が一番美しい馬として惚れた『アンダルース』種をスペインの南の小さな村に訪ねるドキュメンタリーをやっていた。我々の世代では山口百恵のお父さんであり、時代劇の馬乗りの名手の俳優としても有名だ。馬と言えば、サラブレットかアラブだけしか知らなかったが、『アンダルース』種が一番美しいというのが驚きで、馬種にしても犬種にしても奥が深い。

馬好きの宇津井健さんが、80歳の誕生日を迎え、念願の『アンダルース』に乗り、ゆったりと相馬馬子歌を歌いながらアンダルシアの野山を行く姿が格好良かった。

そう言えば、バルセロナオリンピックの開会式では優雅な馬術が披露されたし、フラメンコダンサー、クリスチーナ オヨスが颯爽と馬に乗って駆け抜けて行った。また、オーストリアのウイーンにはスペイン宮廷式馬術学校の宮殿がある。

この馬の『アンダルース』種について調べていくと,さらに興味深い歴史的事実が分かってきた。
4000年前からのアラビア半島原産の馬種が、アンダルシア地方でローマ時代からベンハーのシーンで有名な競技場を走る軍用馬として賞賛されていたらしい。それが、8世紀イスラム勢力がイベリア半島に侵略してコルドバのアラブの王により保護され大切に育てられ、1492年にフェルナンド、イザベルカトリック両王に最後グラナダ征服されレコンキスタが終了すると、今度はスペイン王室の為の馬となりカルロス1世&カール5世の特別の馬へと繁殖される。息子のフェリッペ2世はこの『アンダルース』種の為の王立の種馬飼育場をコルドバに設立する。軍馬としての強さだけでなく、スペイン王室としての優雅さと華麗さを供えた馬として姿+形+身のこなし(独特のステップ-Paso espan~ol, Passage, Troteなど)として完成させたのである。
当時ヨーロッパ最大のスペイン王国で馬は兵器としても重要な国家軍事機密で、王室内で厳格に管理されていたことが分かる。

この伝統が、力強く華麗で美しい馬『アンダルース』を創り出したのだ。

それで、なんでウィーンバロック建築がバルセロナに由来しているのかというと、この前置きの長かった『アンダルース』馬種が関係しているのである。

1700年、スペインはカルロス2世が死去し世継が居なかった為、フランスのブルボン家からマドリッドの宮廷に入ったフィリップ5世とバルセロナのカール大公(後の神聖ローマ皇帝カール6世、オーストリアの女帝マリア・テレジアの父親である。)との間で1701〜14の間に継承戦争が起こる。
1708年にはバルセロナのサンタ マリア デル マールで婚礼を挙げ、カルロス3世としてスペイン王位継承を請求したが、フランス、イギリス、オランダ、オーストリアのパワーポリティクスが働き、神聖ローマ皇帝カール6世になることを条件に、スペイン国王の継承を諦めさせられる。今のシウダレラ公園あたりのバルセロナの城壁が破られ、マドリッドのフィリップ5世軍に占領されてしまう。

カタルーニャにとっての屈辱の日、11 de Septiembre=DIADAとなったのである。

カール6世がスペイン国王を諦める代わりの条件の一つとして、この『アンダルース』馬種をウィーンへ持ち込むことが入っていて、それが現在のウィーン冬の宮廷内にあるスペイン宮廷式馬術学校である。

その設計を任されたのが、宮廷建築家のエルラッハ親子(Johan&Josep Fischer von Erlach)であった。
父のヨハンは16歳の時にイタリアのローマへ行き、ベルニーニの下で建築と彫刻の修行をしている。
その後ナポリへ行き、スペイン総督の元で働きたいと考えていたが、1687年にオーストリアに戻り、パラーディオ風のヴィラ、ベルニーニ、ボロミーニのイタリアバロック風の当時流行していた建築スタイルの建築を設計をし、ついにはオーストリア ハクスブルク家宮廷建築家になる。

1721年にはパラディオに倣い、ハクスブルグ帝国建設のアイディアの元となった”A Plan of civil and Historical Architecture"を出版する。

代表作であるカールス教会はボロミーミ風の楕円ドーム建築で1716年から建設が始まり、1723年父のヨハンが亡くなって以降、息子のジョセプが1737年に完成させている。
この建築は初期ウィーンバロック建築の代表作となっている。

バルセロナ--->カール6世婚礼--->サンタ・マリア・デル・マール教会--->ウィーン冬の宮殿--->スペイン宮廷式馬術学校--->エルラッハ宮廷建築家親子--->ウィーン初期バロック建築家
となり、ウィーンバロックはバルセロナに由来すると言えるのではないだろうか。

25年前、バルセロナに来る前にウィーンへ行ったときの記憶によると、この教会の前には、オットー・ワグナーの鉄骨と大理石版で装飾的に組み立てられたセセッションのカールス プラッツ駅があり、近代の建築材料の鉄と白大理石を組み合わせ、装飾的で華麗な近代建築に感動したことが甦ってきた。
ここにオーストリアバロック−−−>ウィーンセセッションの建築史的流れが見て取れる。

これはスペインバロック−−−>バルセロナのモデルニスモ建築の建築史流れに共通する所があるのではないかと思う。

よって、
「ウィーンのセセッション建築とバルセロナのモデルニスモ建築により、この2つの街の装飾的で華麗な雰囲気には共通性がある。」という結論に至った。
 

| u1arc | バルセロナの街 | 17:10 | comments(0) | trackbacks(0) | -
バルセロナの新興ブルジョワジーの豪邸建ち並ぶティビダボ山


今日6月25日はガウディの誕生日。
昨日はサン ジョアンの祭日。夏を迎えるスペインにとって重要な祝日だ。
一昨日は夜遅くまで爆竹の音が鳴り響きスペイン中が最もうるさい夜となる。
その騒音を逃れ、遅めの森への愛犬たちとの散歩の帰りにティビダボ(Tibidabo)山から見下ろしたバルセロナの夜景である。街のいたるところから花火が上がっているのが見えた。


先日、SOSmonumentsの仲間たちと新緑のティビダボのハイキングを楽しんだ。

Tibidaboはバルセロナ街の背後に広がる512mの山で、頂上付近には遊園地がある家族連れに人気のスポットだ。うちの子もまだ小さかった頃は、よく週末遊びに連れて来た所である。特にここからのバルセロナの街の眺めは素晴らしい。


私の住むSant Cugat駅からバルセロナに抜けるトンネルを出た所に,Peu del Funicularというティビダボ山へ登る登山電車の駅がある。ここで乗り換え峠の村Vallvidreraまで上がる。
この駅は大きな丸と十字の天窓で明るく、Inoxの手摺とガラスでモダンなデザインとなっている。車両もバルセロナの街を走っているTRAMと同じデザインだ。


登山電車の終着駅は、一気に19世紀末の自由曲線のカタルーニャアールヌーボー=モデルニスモ建築。100年前の風景が広がっている。
一階部分は野石乱積みで、開口部はレンガでピンクに太く縁取られていて野太くゆったりとした感じ。緑色の木サッシで緑のタイルがアクセントとなり、さらにカワイクしている。
それに対し2階部分は、白のモダンな直線的なデザインで開口部は長方形でシンメトリーに開けられている。緑のタイルで市松模様でコロナ部分の一部をデザインしてあり、オシャレである。



駅の前の広場には19世紀松から20世紀初頭に建てられたモデルニスモの家が建ち並んでいる。
バルセロナのブルジョワ(burguesia catalana)の夏の避暑の為に創られたものなので、スッキリとしていて、ちょこっとデザインしたかわいらしい建築が多い。いわゆるアールヌーボーの装飾、曲線過多に比べると、ウィーン・セセッション風で、縦長のものが多いのは、バルセロナの街を眺望する為だと思われる。




屋根瓦は赤レンガ色と緑の2色ストライプ。
開口部は縦長窓であるが、レンガ積み開口部の構造的なアーチ曲線を赤レンガの要石、アーチ内には水色のパステルカラーでストライプのデザイン。壁にはハクスブルグの鷲の紋章の中にカタルーニャの紋章の絵が描いてある。


レンガを積んで縦長のゴシックアーチで支えた床を創り、その上に青色と白のタイルをファサード全体に貼りデザインしている。

ティビダボ山に聳え立つSagrada Corazon(聖心)贖罪教会


1888年バルセロナ第1回目の万博の時にムデハール様式で建てられていたのが、パリのモンマルトルの丘に建つサクレ・クール寺院を真似て、メセナで新興ブルジョワジー達から贖罪ということで寄付を募り、新たに大寺院を建設することになる。
サグラダ ファミリア教会もこの時期、贖罪教会として2代目建築家のガウディによる建設が始まっている。
1902年から,折衷主義モデルニスモ建築家のサグニエール(Enric Sagnier 1858-1931)により始められ、それを息子が1961年に親子2代にわたって完成させた。ネオロマネスク様式の建物の上に集中形式のネオゴシックの折衷様式の教会が聳え立つ。
頂部には黄金に塗られたキリスト像がある。

サグニエールは銀行家の裕福な家庭に生まれ育ち、バルセロナの新興ブルジョワジーの為の邸宅も多く手がけた。ガウディより5年後輩になるが、バルセロナの裁判所、税関の公官庁などの建物を折衷様式で装飾を用い、格調高く豪華に創ることを得意としていた。


ティビダボ山頂に上る登山電車のTramvia Blau駅。Blauはカタラン語で青を意味し、駅舎も青、水色で可愛く塗られている。下のJ.F.Kenedy広場駅から当時のクラシックな木造TRAMがここまで上がってくる。
右奥に聳え立つのが、スグニエールによるティビダボ中腹に建つモデルニスモの豪邸”Casa Arnus(EL Pina)1902-1904”


山頂の教会前、ティビダボ遊園地入口にあるホテル&レストラン。




山頂部に建つ5ツ星、超豪華ホテル"LA FLORIDA"
1920年代にアメリカで流行したレンガ瓦屋根ののったスタイルで、近くにあったカジノに来るお金持ちの為のホテルであった。1925年に建てられたが、スペインの内戦で閉鎖されたままの状態になっていたのを10年前に5ツ星の豪華ホテルにリニューアルされた。


ここからのバルセロナの街の眺めは素晴らしい。
右は92年バルセロナオリンピックがあったモンジュイックの丘。
縦のストライプは、格子状街路の縦の部分。
旧市街の元外城砦のあったところまで延びる。
外城砦であった所は環状道路が造られている。
バルセロナ港へのパースペクティブ効果が効いている。
港の防波堤の所にある帆船型の建物はボーフィルによるもの。


バルセロナの街の反対側。
ティビダボ山を越えるとコイセローラ(Collserola)の森が広がる。
この森はバルセロナの空気を浄化する心肺機能として広大な都市公園となっている。
森の向こうに見えるのは私の住むサンクガットの街。
毎日この森で3匹のダルメシアンの愛犬たちと散歩をする。
私達の生活にはなくてはならない重要な森だ。



この建物はスペインで最初にできたラジオバルセロナの放送局。
ニコラウ・マリア・ルビオ・イ・トゥドゥリ(Nicolau Maria Rubio i Tuduri1891-1981)により、1926-1929のバルセロナ第二回目の万博の頃に創られた。コルビュジェに影響を受けたスペインで初めてのモダン建築である。
ルビオ・イ・トゥドゥリの20歳年上のおじさんがジョアン・ルビオでガウディの弟子である。
トゥドゥリは建築家であるが、都市計画・造園デザイナー(スペインではパイサヒスタ=paisajista)としての方が有名で、モンジュイックで開かれた万博ではフランス人造園家Forestier(1861-1930)の助手として公園・緑地のマスタープランを計画した。この万博でミースのバルセロナバビリオン、カダファルクの4 columnas, ジュジョールのスペイン広場の噴水が創られた。

カタルーニャに多くの公園。庭園をデザインしている。モンジュイックの丘には彼の名前を関した造園学校まである。建築家というよりも造園家として有名である。

ここにもティビダボの地形を生かしてデザインした庭園がある。




ティビダボにある泉を利用して、ナチュラルにデザインしてある。それぞれの植物には木の杭の上に名前が表示してある。奥の竹はbamboo japones=日本の竹の表示があった。



ティビダボ山から湧き出る泉を溜め、池を作り水辺の植物を植えている。池には金魚が泳いでいる。
SOSmonumentsのコアメンバー、建築ドクターのチリ人女性マリア・カルメン(Maricarmen Tapia Gomez)。

ルビオファミリーは近代バルセロナの建築・都市計画の歴史を創ってきていることが解った。

ジョアン・ルビオと兄のマリア・ルビオ(1862-1938)はガウディと同郷のタラゴナ生れで、兄のマリアはスペイン軍の土木技師として城壁、要塞都市を計画する要職に就いていた。バルセロナには19世紀末の1896年に移ってきて、風邪薬で巨大な富を得たDr. Amadeuの「ティビダボ山にガーデンシティ=ciudad jardinを創りたい!」という夢の技術顧問になった。それでティビダボ山開発会社として、山の頂上部にはスペイン最初の遊園地を計画し、バルセロナの街からそこに行く為の市電TRAMと登山電車Funicularを繋いで山頂まで行けるようにした。市電通りの両側には新興ブルジョワの豪邸の為の敷地が山の中腹にある登山電車の駅まで建設された。
万博ではディレクターとして、フランス人造園デザイナーForetierにバルセロナ建築大学出たての息子N.M.R.トゥドゥリを助手に大抜擢し、計画を纏めた。


ケーブルカーの中腹にある発着駅。


背中を向けて話しているのが、今回同行してくれた植物学者のジョセップ。
丁寧に一つ一つの植物の名前を教えてくれた。
クラシックな車両のケーブルカーが下りてくる。


教会下に広がるティビダボの遊園地

ガウディーから独立したジョアン・ルビオもここに2つの豪邸を建てている。


勾配屋根の乗っかった"Casa Casacuberta"
クラシックな木造オリジナル車両とこの豪邸がバッチリ決まっている。
今はレストランとして改築されている。


テラス部分の人工地盤の構造はレンガ積みのゴシックアーチボールとよりなるのでゴシック構造的表現好みのルビオ風であるが、上の家部分は山頂にある豪華ホテルHotel Florida風の20年代アメリカ建築からの影響で、ブルジョワである施主の意向が大いに反映されたデザインであると思われる。外壁、テラス、上部の勾配屋根の家とのコントラストが絶妙で、うまくバランス良く仕上がっている。ガウディから独立した後の、ルビオの建築家としての力量が伺われる。


ドミニコ会の修道院跡をブルジョワの為の豪邸に改築した”El Frare Blanc"
ガウディの所で学んだカタランボールトのレンガ積みを構造的に力強く表現している。
擁壁の手すりはカサ・バトリョのように仮面のようなデザイン。
もっともジョアン・ルビオらしい彼の代表作。
それを92年バルセロナオリンピック前にイベリコ豚のロースト専門のレストランとしてオープンした。





他にもアールヌーボーの華やかなモザイクで美人画が描かれた豪邸が建ち並ぶ


現在、バルセロナのマンションメーカーで元バルサの会長で有名な”ニュニェス イ ナバロ”の持ち物となり、建て替え問題で揺れているバルセロナアールヌーボー=モデルニスモの華”La ROTONDA”
この建物の保存は我々SOS.Monumentsの使命になっている。



20世紀初頭はイギリス、ハワードの田園都市論の影響がバルセロナのブルジョワジーにも浸透し、ここのすぐ近くにあるグエル公園も、グエル伯爵がプロモーターとなり、ガウディが計画を進めている。グエル伯爵もそのファミリーはインディアノスと呼ばれ、カリブ海での奴隷貿易で巨大な富を得て、バルセロナに移住してきた新興のブルジョワジーである。その元気ある新興のブルジョワジーが、メセナのプロモーターとなり、有能な建築家・造園家がガーデンシティープロジェクトを進めていくという構造ができていたようだ。そしてブルジョワジーが同時に市民代表の名士で政治家となり、民が主体で官がそれをフォローしていくというシステムで、この時期バルセロナの近代化が進められていたように思う。
この市電TRAMは公共交通であったが、このティビダボの市電は、公共のシステムをそのまま取り入れた開発会社の私電TRAMだったそうである。ここからティビダボの遊園地が始まっている。

30年代になると、市民戦争によりこのシステムは崩壊し、フランコの独裁政権が始まるとルビオファミリーは、ロンドン、パリへと亡命を余儀なくされる。バルセロナのブルジョワジーも国外へ亡命したので、その時期のバルセロナの建築はあまり良いものは見られず、建築学的ではない都市破壊が行われた。

それを救ったのが、74年フランコ死後再びカタルーニャは自治を取り戻し、GRUP Rの建築家たちが主体となり、本来のバルセロナブルジョワジーの活気が出てきたところが大きいと思う。その建築家の中には、市の助役となり92年オリンピックをオルガナイズしたボイーガス、その前の段階でバルセロナ再建築を実現していった都市計画家マニエル・ソラ・モラーレス・イ・ルビオの存在が大きい。
弟はあの建築家イグナシ・ソラ・モラーレス・イ・ルビオである。このルビオの姓から解るように、彼らも、ジョアン・ルビオを伯父さんに持つルビオファミリーなのである。2004年のバルセロナフォーラムではマニエル・ソラ・モラーレスの弟子のジョアン・ブスケッツによりディアゴナル大通りが地中海まで到達し、
1859年のセルダのエンサンチェプランが150年後にようやく完成している。

ルビオファミリーのバルセロナの建築と街への想いが、新興のバルセロナブルジョワーの新しい力と一体となって、市民戦争、独裁政権を乗り越えを発展させて行ったともいえるのではないかと思う。

今日、黄金の国”ジパング”の由来になったといわれる金色に輝く平泉の中尊寺と極楽浄土の庭の毛越寺が世界文化遺産になったという、うれしい知らせが届いた。
阿弥陀の世界を具現化した極楽浄土の里としてその地方一体含めての認定となったらしい。
今度一時帰国した際には、石山さんお薦めの大屋根が「日本一の茅葺屋根」で山のようと言われる近くの正法寺にも寄って見たい。

この世界文化遺産認定が復興の心の支えとなり、新しい極楽浄土を感じさせる山里になることを期待する。



| u1arc | バルセロナの街 | 12:33 | comments(1) | trackbacks(0) | -
バルセロナの街の中心に若者達のテント村が出現!!!
 民主党の元首相が現首相に向かって、お前は嘘つきでペテン師だと言った。
この元首相も平成の脱税王呼ばわれされ今期限りで引退を表明をしておきながら、それをすぐに撤回した嘘つきであった。
嘘つきが嘘を言うと嘘になるのか、それとも本当になるのか?

これが現在私達を悩ます日本の政治的状況である。
被害に遭われている地元の首長から見れば、!!!もう、いい加減にしろ!!!と怒り心頭するのも当然のことである。

#私達、国民の税金で食っている日本の政治家に対して!!!無駄遣いはやめろ!!!と思っている。

「クレタ人はいつも嘘をつくとあるクレタ人が言った。」
中学の数学の時間に習った『クレタ人の嘘』とという有名なギリシア時代からの論理学の話を思い出した。

世界的バブルが弾けたリーマンショック以降、経済状況が悪くなり国際的に政治が不安定になっている。今年初めにはチェニジアのジャスミン革命に始まりエジプト、リビア、シリアとアフリカ地中海沿岸諸国へと瞬く間に広がった。

今回の革命は、ツイッター、facebookなど、携帯ネットワークの仲間の繋がりが連帯を呼びかけ、それに賛同した多数の若者を中心に繰り広げていったのが特徴とされている。今までだと国家による報道統制により押さえ込られていたのが、新しい媒体がそれを上回ってしまい、たくさんの市民の死者を出した厳しい取締りの様子が国際社会から批判を浴び、独裁政権を倒すことに繋がった。かつて砂漠のライオンと呼ばれていた百戦錬磨のカダフィ大佐は、EU諸国の警告をものともせず2ヶ月以上経っても戦う姿勢を崩していない。EUとの戦争状態になっている。

cruasanさんの地中海ブログでも紹介されているように、スペインでも、このジャスミン革命が影響を及ぼしている。今の雇用状況の悪い社会に不満を持つ若者達を中心に、共感を得て新しいメディアを通し広がった。マドリッドではプエルタ・デル・ソル、バルセロナではカタルーニャ広場の街の中心部の広場を占拠し、それが1ヶ月以上にも及び、テント村を形成している異常事態なのである。

#彼等のことを”INDIGNADOS"と呼んでいる。無策のひどい政治状況にストレートに『怒る市民』なのである。その『怒る市民』が連帯し、各都市の中心をテント村で占拠している状況である。

インターネットという新しいメディアによる、スペイン各地広がっている現在のスペインの社会現象と言える。

ちょうど1週間前には、バルサとマンUとのヨーロッパカップの決勝戦があったが、その優勝を準備をする為に、州政府はカタルーニャ広場を占拠している若者達を排除しようとして警官隊と激しく衝突した。
彼等は本気で祭りよりも自分達の将来を選択した。

州政府は、いつものようにカタルーニャ広場で今回のバルサのヨーロッパカップでの優勝を大々的に盛り上げようとしたのであるが、思いがけず若者達の激しい抵抗に合い失敗した。無抵抗の若者達が、武装した警官たちに棍棒で殴られ血を流している姿がテレビで報道され、それがYouTubeにもアップされ、市民の間にも若者達の方に同情する市民が増えてきているように思える。そして、それを指揮した州内務大臣への辞任要求が強まっている。

それだけカタルーニャ広場のテント村の住人の連帯が強く、市民の共感も得て、益々結束の方向へ向かっている。この動きは東日本大震災救済を支援しているグループとの連帯とも連動し、現在6万人の署名をあと4万人合計10万人の署名を集める政治運動へと発展している。

テント村は整然とオルガナイズされて、毎日のプログラムが組まれている。街頭へのデモ行進の時間以外の時間は、住民達の為のワークショップ、絵画、ダンス、瞑想、ヨガ、ディベート、コンサート、講演などたくさんの催しが用意されている、レベルの高いインスタント文化村なのである。





サグラダ・ファミリア御受難の門の彫刻家として知られるスビラックによる、スペイン内戦時の政治家フランセスク・マシアのモニュメント。
カタルーニャ広場のシンボル。ここから港まで約2kmのランブラス通りが始まる。


フランコ独裁政権と戦ったカタルーニャ共和国首相を讃え、1992年バルセロナオリンピックの前年に創られた。今回のテント村のシンボルになっている。


座禅を組んで瞑想している人、ギターを弾いている人、それぞれの生き方で個性を持ってこのテント村で過ごしている。子供連れのファミリーもいる。平和的風景がこのテント村には存在している。


テントだけでなく樹上住居も造られている。見張りとしての高見櫓のような機能を持っている様。



広場中央。バルサヨーロッパカップ決勝進出を祝う建物全面広告に覆われている。


大噴水回りの植え込み内に設置されているカラフルなテント群。


既成のテントではなく、バラックをそれなりにデザインしている。


植え込みの芝をはがし囲いをし、そこには何と畑が作られている!バルセロナの街のど真中のテント生活のエコライフを楽しんでいるかのような風景が広がっていたのでビックリ。ここまで来ると、もうインスタレーションのアート作品だ。


自分達で用意した簡易トイレが整然と並んでいて、ゴミも散らかっていない。
屋外彫刻にはカラフルに飾り付けられ、自分達のマニフェストを掲げている。
自分達のマニフェストに賛同を求める署名スタンドもある。
そこにはテント村をオルガナイズし、インターネットで連帯していくという、新しいコミュニティーがしっかり存在している。

ヒッピー文化の原点と言われているウッドストックを、新しいメディアを使いバルセロナの街のど真中でできてしまっているすごい状況である。さすがに60年、70年代世界中のヒッピー達が集まってきたバルセロナに近いイビザ島のボヘミアンの伝統があるようだ。

このバルセロナの『インスタントビレッジ』が、フクシマ後のこれからの若者のライフスタイルとなり、新しいコミュニティを創って行くにちがいない。

#6月9日には、バルセロナで村上春樹氏のカタルーニャ国際賞の授賞式が行われ、氏の受賞スピーチ『非現実的な夢想家として』が日本でも大きな注目を集めた。このスピーチは、今後の市民社会の効率重視主義からの脱却の思想となっていくと思う。

| u1arc | バルセロナの街 | 10:40 | comments(0) | trackbacks(0) | -
カタルーニャのシンボルCuatro Columnas =4本のイオニア式巨大円柱の復活
昨日、プッチ・カダファルク(Josep puig i cadafalch1867-1956)による4本のイオニア式巨大円柱 =Cuatro Columnasが復活したのを記念し、Masカタルーニャ州大統領とHerauバルセロナ市長によるセレモニーが盛大に行われた。



昨年末のブログにも書いたが、1929年、モンジュイックで行われたバルセロナ2回目の万博の直前に当時のスペインの軍事独裁政権プリモ・デ・リベラによってカタラン色が強いと取り壊されたものだ。
その後のスペインは内戦状態になり、1937年共和国政府の最後の首都バルセロナでフランコ将軍率いる反乱軍に占領され、カタルーニャにとって暗黒のフランコ独裁政権時代となる。

この年にピカソは、祖国の為にパリで開かれた万博のスペイン共和国政府バビリオンに、あの『ゲルニカ』を描いたのである。パビリオンはコルビュジェの一番弟子でバルセロナ出身の建築家セルトによるものだ。
その次の年の1938年には市民戦争に参戦したジョージ・オーウェルが『カタロニア賛歌』を出版する。そのバルセロナでの経験が彼に『1984』を書かせ、村上春樹の『1Q84』へと繋がっていく。
近代の芸術・文化にも強い影響を与えている歴史的事件だったのである。

再建築をめぐっては、余りにもシンボリックなのでインパクトが強く、現在の景観にそぐわないとかいろいろ賛否がありここまで来るには紆余曲折があったということを、この計画を推進したサルバドール・タラゴから聞いた。

実際建っていた所は、現在の位置ではなく、Font de la Magica(マジック大噴水)を挟んだ向こう側だったのであるが、バルセロナ市役所は観光名物の噴水ショウの邪魔になるから、この写真の左のミースパビリオンの前の広場にするとか転々と場所を変え邪魔者扱いにされていたのが、カタルーニャ州政府により何とかもとあった所に近いこの場所に落ち着いたそうである。


スペイン広場にあるジュジョールによる噴水モニュメントからFIRAバルセロナ見本市会場、4columnas,カタルーニャ美術館MNACを結ぶ軸線

カダファルクによると4本の円柱の位置は、ジュジョールによるスペイン広場にあるモニュメントとカタルーニャ美術館を結ぶ軸線のちょうど中心にくるように計画したそうである。カタルーニャの精神を表す動かしがたい最も重要なイコンであったのである。その重要性を政治家に説いてようやく受け入れてもらえたということである。

やはり、しっかりした建築的コンセプトは人を動かすのである。
また、それを理解し粘り強く説明し、人を納得させることも建築歴史家として重要であることを教わった。




当時の4 Columnasのオリジナル。大噴水の前に位置していた。



昨年、ユネスコの世界文化遺産に決まったCastellerによる4 Columnasのパフォーマンス。









人間ピラミッドによるカタルーニャのシンボル=4 Columnasが見事に決まった瞬間である。




カタルーニャ美術館MNACの前から4 Columnasを望むと左側に虹が現れ、カタルーニャの独裁政権からの自由と今のバルセロナの繁栄を祝っているようであった。








現在はカタルーニャ美術館=MNACとして再生されたスペインルネサンス様式の建築をプッチ・カダファルクのイオニア式巨大円柱=4Columnasで力強くささえている様


今年のカタルーニャの祭日、Diada(9月11日)にはここで盛大に行うとのバルセロナ市長の話があったが、ガウディ、ドメニク・モンタネールに並ぶ建築家の巨匠プッチ・カダファルクの計画したこの古建築的イコンが、独裁者から勝ち得た自由と民主主義を愛するカタラン人の精神的シンボル的支柱となるに違いない。

3大モデルニスモ建築家の果たした歴史的役割は、これからのバルセロナ市民の精神的支柱にもなりうるものであることを再認識した。


| u1arc | バルセロナの街 | 08:47 | comments(1) | trackbacks(0) | -
バルセロナの中心にあるアートギャラリーアラゴン232での書展
バルセロナの街はどんどん拡張していっているが、現在の中心はどこかと考えてみると、縦軸のパセオ・デ・グラシア大通りと横軸のアラゴン通りの交点ではないかと思われる。

そこは150年ほど前のセルダの格子状の新市街区(アンシャプラ)に、まるで黄金のりんご(cuadra=manzana de Oro) の如く実ったモデルニスモ建築の宝庫である。

ガウディのカサ・バトリョとプッチ・カダファルクのカサ・アマテリェール、それに現在タピエス美術館に改修されたドメネク・モンタネールの元MONTANER I SIMON出版社がある。モデルニスモ建築の三大巨匠の初期の建築が建っている。



ドメニク・モンタネールの世界遺産になっているサンパウ病院,パラウ・デ・ラ・ムシカに比べてあまり有名でないが、1879−1886の最初のモデルニズモ建築として重要である。
ファサードはアラブ風のレンが積のムデハール様式であるが、構造は鋳鉄の細い円柱とI字鋼の梁を使った鉄骨構造の近代建築になっており、この時期エンサンチェと呼ばれるバルセロナの格子状の街区に建てられた建物は、この近代建築工法を見習って造られている。I字鋼の梁の間には、厚さ4cmの薄いレンガでボールト状にしてそこにモルタルを流して床を造るカタランボールト工法が取られている。ガウディの初期の作品であるカサ・ビセンスは、大学の先生であったモンタネールのこの建物の影響を受け、ムデハール様式との折衷主義によりデザインされていると同時に、カタルーニャ・ボールトという薄いレンガをボールト状に積上げ、そのまま型枠として使う合理的な建設工法も取り入れてたのである。

バルセロナのモデルニズモ建築の原点とも呼べると思う。

ここが、バルセロナ出身のモダンアートの巨匠、アントニオ・タピエスの美術館となり、最近また改築されバージョンアップされオープンしたところである。



タピエスは日本の書にも通じるモダンアートの作品を創っているが、昨日その斜め前にあるアート・ギャラリー、aragon232で、日本の女流書道家、山本魁星さんの書展のオープニングがあった。(財団法人日本スペイン協会共催)

バルセロナの格子状の街並みの如く展示された92枚の色紙。
一枚一枚漢字一文字に書家の想いがこもっていて抽象画のようである。



18枚目の真中の『命』という字を書いていた時に魁星さんのお母様が倒れたとのことで、その想いがこの『命』の文字に込められていると本人自身から伺った。



幸福の福には今年の干支ウサギさんがいる。
この上の2枚の写真、右下にある字が最後まで読めなかった。
皆さんは読めますか?

上は『挑』と教えてもらったが、下は今でも分からない。

#魁星さん本人から連絡があり、書いた中での唯一の草書体『知』であることが解った。
知らないことを知ることは楽しい。
無知の知である。




メッシ、ピケ、プジョール、イニエスタ、ビジャ等バルサのメンバーの名前を平仮名で書かれてあり、その中心にはバルサカラーのボールが描かれたものを用意し、蹴の字を書のパフォーマンスで書き込み、蹴球=フッボール=サッカーが完成した。
この字の意味を説明すると、
!!!GO・O・OL!!!
とバルセロナっ子達から歓声が上がった。
日本の書がスペイン人に受け入られた瞬間である。
早速、この書をカンプ・ノウのバルサ博物館に寄贈したらという提案があった。



魁星さんによる書のパフォーマンス。『ありがとう Gracias』



アートギャラリー、aragon232のキュレーター マリアさん。彼女はポルトガルのポルト出身で大学ではモダンアートを専攻し、日本文化にも造詣が深い。安土桃山以来の文化交流があるので書は感性的に分かるらしく、テレビのインタビューにも答えていた。



バルセロナでの書展&パフォーマンスで成功を収めた山本魁星さん。
日本の文化、書を通じてバルセロナの人たちと良い交流ができた。

この書展で漢字一つで様々なイメージを表現できる書とパフォーマンスを通じての異文化との交流の素晴らしさを楽しんだ。

岡倉天心が西欧に対抗して提唱したように、『書』は絵画、彫刻同様、日本の文化、芸術であること再認識した。

| u1arc | バルセロナの街 | 10:27 | comments(0) | trackbacks(0) | -
2010年 el fin de año=大晦日
今日は2010年最後の日、 el fin de año=大晦日である。
恒例のバルセロナのランブラス通りにあるボッケリア=サンホセの市場まで正月の為の買出しに行ってきた。

新しい年を迎えるには、やはりいいものが揃っているボッケリアまで行かないとというのが、ここ十年の我が家の決まりみたいなものになっている。特にこのスペイン不況の中でも良い年を迎えたいという願いも込められている。

今年は去年に比べ漁が良かったようで、形の良い2キロの大鯛と3.5キロのガリシア産の大蛸の極上物が手に入った。

目の前で大鯛の鱗と内臓だけとってもらう。



大蛸が赤く茹で上がったところ。プリプリして美味しそう!!!




明日の2011年、元旦のおせちが楽しみ。


今年を振り返ってみると、スペインにとって2010年はたいへん重要な年となった。
一つ目はなんといってもワールドカップのスペイン優勝
その優勝に貢献したのはプジョール、ヴィリャ、ピケ、イニエスタ、チャビなど皆バルサの選手達であった。

二つ目は『永遠の建設現場』といわれていたガウディのサグラダファミリアが、21世紀のバシリカ教会堂としてベネディクト16世を名乗るローマ法王によって聖別されたことである。

今年の私のブログはイグナシ・ロヨラの聖窟教会に始まり、年末UCANDONOの聖窟教会で終わろうとしている。

この教会からボルジア=ボルハ家と繋がり、アラゴン・カタルーニャ王家が深く15.16世紀のイタリアルネサンス文化の繁栄に関わっていたことが知ることができ たのは最大の収穫であった。それをさらに遡っていくと、3世紀にロレンソが殉教する前にローマから生まれ故郷であ るアラゴンへキリストの聖杯を送ったことがことの始まりらしい聖杯伝説に繋がってしまった。

本当に『巡るー 巡る〜よ 時代は巡る〜』なのであった。

中世ヨーロッパ社会の最大権力、ローマ法王とローマ皇帝の座を手に入れたカルロス一世スペイン王で頂点を極め、その子フェリッペ2世へと引き継がれ、キリ ストの墓のあるエルサレムの聖墳墓教会からスペインに新しい聖都=『ヌエバ エルサレム』を建設することを計画した。

それがグラナダのアルハンブラに楔の如く打ち込まれ たカール5世宮であり、サン・ロレンソ=エル エスコリアル宮であるように思えるようになった。


そのヨーロッパの歴史を創って来た戦略的都市国家であるバルセロナの重要性を、今のEU諸国スペインの中で再認識させられた一年であった。




主宰はサルバドール・タラゴで、歴史的建造物の保存に取り組んでいるNPO団体『SOS MONUMENTOS』からクリスマス&年賀カードが届いた。
私も今年からこの会合に参加させてもらっている。

8年にも及ぶバルセロナ市とカタルーニャ州を相手に建築家生命をかけた保存運動で、ようやくカタルーニャの紋章の4本の線をシンボライスしたイオニア式の巨大柱が元あった場所近くに再建築されたと本人から聞いた。実現の為に2万人の署名を集めたとのことである。

この4本柱は、ミースパビリオンの建ったバルセロナ第二回目の1929年万博の時に、プッチ・カダファルクによって計画されたもので、開催直前にカタルーニャ色が強いという政治的理由で取り壊されてしまったという。この4本はそれぞれ、アラゴン、カタルーニャ、バレンシア,マヨルカを意味している誇り高いアラゴン・カタルーニャ王国なのである。

レアル=realなカタラン人の信念はこの歴史ある誇り高いアラゴン・カタルーニャ王国の血脈=sangre realに由来している。


| u1arc | バルセロナの街 | 20:46 | comments(0) | trackbacks(0) | -
サグラダファミリア カトリック教会大聖堂奉献まであと一週間
ローマ法王ベネディクト16世によるサグラダファミリア カトリック教会大聖堂の奉献という歴史的瞬間まであと一週間のとなり、バルセロナの街はその準備で大忙しである。

 

上の写真は、それに先立ち一昨日バルセロナで一番美しいサンタ・マリア デル マール バシリカ大聖堂で行われた日本人による賛美歌コンサート。
今度の木曜日の午後4時からローマ法王をバルセロナに迎える為のミサを執り行われることが司教から説明があった。

7日の日曜日のミサでは、サグラダファミリアを中心とする周囲のマンサーナ(街区)の道路は全て遮断され、堂内に入りきれない人の為にたくさんのスクリーンを用意し、ミサの様子を中継するようになっている。

バルセロナの街をパレードする為に、世界に3台しかないというのベンツ社製の通称『PAPA-car』も特別の貨物機で運ばれてきたところで、またバチカンからは2万人がその警護にあたるという厳戒態勢の中で行われる。





法王はサグラダファミリア正面入口、このグロリアス(御栄光)の門扉(スビラックによりデザインされていて、日本語を含め世界中の言葉で彫り込まれている。中央A|GがAntoni Gaudiの頭文字を磨き出している)のオープニングを行い、



まるで森の中のようなガウディボールト天井に覆われた身廊の列柱群の中をマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4福音書使徒名を冠した巨大な四本の柱の中央交差部まで進む。(現在は足場は全て取り払われている。)そこが主祭壇の階段入口なっていて、階段を上がった所が後陣の半円形状に聳え立つ列柱に囲まれたエルサレムの聖墳墓教会と同じアナタシス−ロドンダ(キリストの『復活』を表す天上のサークル)の様な祭壇(下の写真)となっている。



ローマ法王ベネディクト16世はこの祭壇奥で、ローマカトリックバシリカ大聖堂の奉献のミサを行うことになっている。

カタルーニャの聖地で、ガウディのサグラダファミリアの造形イメージにもなっているモンセラット山の教会もベネディクト派の修道院でバシリカ教会大聖堂である。
今回サグラダファミリアがベネディクト16世を名乗るローマ法王によって21世紀のローマカトリックバシリカ教会大聖堂として同様に扱われるのも何かの巡り合わせなのであろうか。

この真下の地下聖堂に眠っているガウディも永年の想いが叶い、満足するに違いない。
| u1arc | バルセロナの街 | 18:33 | comments(0) | trackbacks(0) | -
ミースのバルセロナパビリオンでの"AI WEI WEI With Milk"    バルセロナパビリオンをカフェ・オレに変えてしまった男
 ミース財団から"AI WEI WEI With Milk"というわけの分からない招待状が届いたので、久しぶりにミースバルセロナパビリオンに行く。

まさかパンダの赤ちゃんに関する催しでもするわけないしと思い会場に向かう。
会場にはミース財団ディレクターのオルテット氏の姿もあり、久しぶりの再会の挨拶をする。
どうも中国人アーティストのプレゼンテーションの様でTVカメラなど報道関係者が詰めかけている。とすると、パンダの名前だと思っていたのは中国人建築家かアーティストということになるが、館内にはなんの展示もないし、ちょっとした記者会見程度の机と椅子が並べてある程度である。

久しぶりの館内を見て回る。バルセロナの12月の真昼の太陽の光を浴びたパビリオンの光と影のコントラストも美しいなと奥のブロンズの女性の裸像が設置してある水盤プールに行く。



いつにもまして水が汚く、茶色の粉のようなゴミが漂っている。最近はろくにプールの掃除もしていないのかな?と不思議に思う。




プール際にあったミースの椅子でくつろいでいると記者会見風のプレゼンテーションが始まった。
私の全くの認識不足であったが今や世界的にも有名なアーティストであるというAL WEI WEI氏であった。




威風堂々としていて、まるで達磨禅師のような風格のアーティストであった。(写真中央)

結構流暢な英語でミースパビリオンのこと、今回のインスタレーションのことを話していた。
右のマフラーをした人はミュンヘンの美術館のキュレーターのようで彼の作品にゾッコン惚れていて熱く彼の芸術性について英語で語っていた。
語り終わった後はお互いにキスをしていたぐらいの仲である。




講演後、カクテルパーティーとなる。

ようやくWith Milk の意味が分かる。この写真のようにプールが白くなっている。
ミース財団のキュレーターのラウラに聞くと、これは本当のレアルな牛乳で昨日入れたものだという。
「醗酵してそのうちに匂ってくるわよ。」と言っている。ということは、「最初に見た奥のプールは汚れているのではなく、コーヒーなの?」と聞くと「そう。」と。

それで"AI WEI WEI With Milk"か!!!

スペイン語で盛り上がって話していると向こうからAI WEI WEIがやってきた。多分、同じ中国人と思ってやってきたのだろうか。とても人懐っこい感じで、お互い挨拶を交わす。ラウラが間に入り英語で私の紹介を始める。
しばらく話して、「中国の古い伝統である風水をどう思いますか?」と質問をしてみる。やはり、彼は急に顔色を変え去って行った。

コングラチエーション!と言うと彼は振り向いてニコッと笑みを返してくれた。

中国文化大革命以後のアーティストは中国4千年の歴史を否定するコンテンポラリーアーチストなのであった。でも、彼の作品、風貌は彼自身否定してもそれを語っているように思えた。

今後の中国文化発展の鍵は、文化革命時に否定され失われたこの長い中国の歴史と伝統に真摯に向い合い、それをルネサンス(再生)とレインタープレット(再構築)することにかかっていると思う。

それにしても、ミースパビリオンを「カフェ・オレ」に変えてしまう、すごい中国人アーティストが出てきたものである。







| u1arc | バルセロナの街 | 11:46 | comments(0) | - | -
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