今日6月25日はガウディの誕生日。
昨日はサン ジョアンの祭日。夏を迎えるスペインにとって重要な祝日だ。
一昨日は夜遅くまで爆竹の音が鳴り響きスペイン中が最もうるさい夜となる。
その騒音を逃れ、遅めの森への愛犬たちとの散歩の帰りにティビダボ(Tibidabo)山から見下ろしたバルセロナの夜景である。街のいたるところから花火が上がっているのが見えた。
先日、SOSmonumentsの仲間たちと新緑のティビダボのハイキングを楽しんだ。
Tibidaboはバルセロナ街の背後に広がる512mの山で、頂上付近には遊園地がある家族連れに人気のスポットだ。うちの子もまだ小さかった頃は、よく週末遊びに連れて来た所である。特にここからのバルセロナの街の眺めは素晴らしい。
私の住むSant Cugat駅からバルセロナに抜けるトンネルを出た所に,Peu del Funicularというティビダボ山へ登る登山電車の駅がある。ここで乗り換え峠の村Vallvidreraまで上がる。
この駅は大きな丸と十字の天窓で明るく、Inoxの手摺とガラスでモダンなデザインとなっている。車両もバルセロナの街を走っているTRAMと同じデザインだ。
登山電車の終着駅は、一気に19世紀末の自由曲線のカタルーニャアールヌーボー=モデルニスモ建築。100年前の風景が広がっている。
一階部分は野石乱積みで、開口部はレンガでピンクに太く縁取られていて野太くゆったりとした感じ。緑色の木サッシで緑のタイルがアクセントとなり、さらにカワイクしている。
それに対し2階部分は、白のモダンな直線的なデザインで開口部は長方形でシンメトリーに開けられている。緑のタイルで市松模様でコロナ部分の一部をデザインしてあり、オシャレである。
駅の前の広場には19世紀松から20世紀初頭に建てられたモデルニスモの家が建ち並んでいる。
バルセロナのブルジョワ(burguesia catalana)の夏の避暑の為に創られたものなので、スッキリとしていて、ちょこっとデザインしたかわいらしい建築が多い。いわゆるアールヌーボーの装飾、曲線過多に比べると、ウィーン・セセッション風で、縦長のものが多いのは、バルセロナの街を眺望する為だと思われる。
屋根瓦は赤レンガ色と緑の2色ストライプ。
開口部は縦長窓であるが、レンガ積み開口部の構造的なアーチ曲線を赤レンガの要石、アーチ内には水色のパステルカラーでストライプのデザイン。壁にはハクスブルグの鷲の紋章の中にカタルーニャの紋章の絵が描いてある。
レンガを積んで縦長のゴシックアーチで支えた床を創り、その上に青色と白のタイルをファサード全体に貼りデザインしている。
ティビダボ山に聳え立つSagrada Corazon(聖心)贖罪教会
1888年バルセロナ第1回目の万博の時にムデハール様式で建てられていたのが、パリのモンマルトルの丘に建つサクレ・クール寺院を真似て、メセナで新興ブルジョワジー達から贖罪ということで寄付を募り、新たに大寺院を建設することになる。
サグラダ ファミリア教会もこの時期、贖罪教会として2代目建築家のガウディによる建設が始まっている。
1902年から,折衷主義モデルニスモ建築家のサグニエール(Enric Sagnier 1858-1931)により始められ、それを息子が1961年に親子2代にわたって完成させた。ネオロマネスク様式の建物の上に集中形式のネオゴシックの折衷様式の教会が聳え立つ。
頂部には黄金に塗られたキリスト像がある。
サグニエールは銀行家の裕福な家庭に生まれ育ち、バルセロナの新興ブルジョワジーの為の邸宅も多く手がけた。ガウディより5年後輩になるが、バルセロナの裁判所、税関の公官庁などの建物を折衷様式で装飾を用い、格調高く豪華に創ることを得意としていた。
ティビダボ山頂に上る登山電車のTramvia Blau駅。Blauはカタラン語で青を意味し、駅舎も青、水色で可愛く塗られている。下のJ.F.Kenedy広場駅から当時のクラシックな木造TRAMがここまで上がってくる。
右奥に聳え立つのが、スグニエールによるティビダボ中腹に建つモデルニスモの豪邸”Casa Arnus(EL Pina)1902-1904”
山頂の教会前、ティビダボ遊園地入口にあるホテル&レストラン。
山頂部に建つ5ツ星、超豪華ホテル"LA FLORIDA"
1920年代にアメリカで流行したレンガ瓦屋根ののったスタイルで、近くにあったカジノに来るお金持ちの為のホテルであった。1925年に建てられたが、スペインの内戦で閉鎖されたままの状態になっていたのを10年前に5ツ星の豪華ホテルにリニューアルされた。
ここからのバルセロナの街の眺めは素晴らしい。
右は92年バルセロナオリンピックがあったモンジュイックの丘。
縦のストライプは、格子状街路の縦の部分。
旧市街の元外城砦のあったところまで延びる。
外城砦であった所は環状道路が造られている。
バルセロナ港へのパースペクティブ効果が効いている。
港の防波堤の所にある帆船型の建物はボーフィルによるもの。
バルセロナの街の反対側。
ティビダボ山を越えるとコイセローラ(Collserola)の森が広がる。
この森はバルセロナの空気を浄化する心肺機能として広大な都市公園となっている。
森の向こうに見えるのは私の住むサンクガットの街。
毎日この森で3匹のダルメシアンの愛犬たちと散歩をする。
私達の生活にはなくてはならない重要な森だ。
この建物はスペインで最初にできたラジオバルセロナの放送局。
ニコラウ・マリア・ルビオ・イ・トゥドゥリ(Nicolau Maria Rubio i Tuduri1891-1981)により、1926-1929のバルセロナ第二回目の万博の頃に創られた。コルビュジェに影響を受けたスペインで初めてのモダン建築である。
ルビオ・イ・トゥドゥリの20歳年上のおじさんが
ジョアン・ルビオでガウディの弟子である。
トゥドゥリは建築家であるが、都市計画・造園デザイナー(スペインではパイサヒスタ=paisajista)としての方が有名で、モンジュイックで開かれた万博ではフランス人造園家Forestier(1861-1930)の助手として公園・緑地のマスタープランを計画した。この万博でミースのバルセロナバビリオン、カダファルクの4 columnas, ジュジョールのスペイン広場の噴水が創られた。
カタルーニャに多くの公園。庭園をデザインしている。モンジュイックの丘には彼の名前を関した造園学校まである。建築家というよりも造園家として有名である。
ここにもティビダボの地形を生かしてデザインした庭園がある。
ティビダボにある泉を利用して、ナチュラルにデザインしてある。それぞれの植物には木の杭の上に名前が表示してある。奥の竹はbamboo japones=日本の竹の表示があった。
ティビダボ山から湧き出る泉を溜め、池を作り水辺の植物を植えている。池には金魚が泳いでいる。
SOSmonumentsのコアメンバー、建築ドクターのチリ人女性マリア・カルメン(Maricarmen Tapia Gomez)。
ルビオファミリーは近代バルセロナの建築・都市計画の歴史を創ってきていることが解った。
ジョアン・ルビオと兄のマリア・ルビオ(1862-1938)はガウディと同郷のタラゴナ生れで、兄のマリアはスペイン軍の土木技師として城壁、要塞都市を計画する要職に就いていた。バルセロナには19世紀末の1896年に移ってきて、風邪薬で巨大な富を得たDr. Amadeuの「ティビダボ山にガーデンシティ=ciudad jardinを創りたい!」という夢の技術顧問になった。それでティビダボ山開発会社として、山の頂上部にはスペイン最初の遊園地を計画し、バルセロナの街からそこに行く為の市電TRAMと登山電車Funicularを繋いで山頂まで行けるようにした。市電通りの両側には新興ブルジョワの豪邸の為の敷地が山の中腹にある登山電車の駅まで建設された。
万博ではディレクターとして、フランス人造園デザイナーForetierにバルセロナ建築大学出たての息子N.M.R.トゥドゥリを助手に大抜擢し、計画を纏めた。
ケーブルカーの中腹にある発着駅。
背中を向けて話しているのが、今回同行してくれた植物学者のジョセップ。
丁寧に一つ一つの植物の名前を教えてくれた。
クラシックな車両のケーブルカーが下りてくる。
教会下に広がるティビダボの遊園地
ガウディーから独立したジョアン・ルビオもここに2つの豪邸を建てている。
勾配屋根の乗っかった"Casa Casacuberta"
クラシックな木造オリジナル車両とこの豪邸がバッチリ決まっている。
今はレストランとして改築されている。
テラス部分の人工地盤の構造はレンガ積みのゴシックアーチボールとよりなるのでゴシック構造的表現好みのルビオ風であるが、上の家部分は山頂にある豪華ホテルHotel Florida風の20年代アメリカ建築からの影響で、ブルジョワである施主の意向が大いに反映されたデザインであると思われる。外壁、テラス、上部の勾配屋根の家とのコントラストが絶妙で、うまくバランス良く仕上がっている。ガウディから独立した後の、ルビオの建築家としての力量が伺われる。
ドミニコ会の修道院跡をブルジョワの為の豪邸に改築した”El Frare Blanc"
ガウディの所で学んだカタランボールトのレンガ積みを構造的に力強く表現している。
擁壁の手すりはカサ・バトリョのように仮面のようなデザイン。
もっともジョアン・ルビオらしい彼の代表作。
それを92年バルセロナオリンピック前にイベリコ豚のロースト専門のレストランとしてオープンした。
他にもアールヌーボーの華やかなモザイクで美人画が描かれた豪邸が建ち並ぶ
現在、バルセロナのマンションメーカーで元バルサの会長で有名な”ニュニェス イ ナバロ”の持ち物となり、建て替え問題で揺れているバルセロナアールヌーボー=
モデルニスモの華”La ROTONDA”この建物の保存は我々SOS.Monumentsの使命になっている。
20世紀初頭はイギリス、ハワードの田園都市論の影響がバルセロナのブルジョワジーにも浸透し、ここのすぐ近くにあるグエル公園も、グエル伯爵がプロモーターとなり、ガウディが計画を進めている。グエル伯爵もそのファミリーはインディアノスと呼ばれ、カリブ海での奴隷貿易で巨大な富を得て、バルセロナに移住してきた新興のブルジョワジーである。その元気ある新興のブルジョワジーが、メセナのプロモーターとなり、有能な建築家・造園家がガーデンシティープロジェクトを進めていくという構造ができていたようだ。そしてブルジョワジーが同時に市民代表の名士で政治家となり、民が主体で官がそれをフォローしていくというシステムで、この時期バルセロナの近代化が進められていたように思う。
この市電TRAMは公共交通であったが、このティビダボの市電は、公共のシステムをそのまま取り入れた開発会社の私電TRAMだったそうである。ここからティビダボの遊園地が始まっている。
30年代になると、市民戦争によりこのシステムは崩壊し、フランコの独裁政権が始まるとルビオファミリーは、ロンドン、パリへと亡命を余儀なくされる。バルセロナのブルジョワジーも国外へ亡命したので、その時期のバルセロナの建築はあまり良いものは見られず、建築学的ではない都市破壊が行われた。
それを救ったのが、74年フランコ死後再びカタルーニャは自治を取り戻し、GRUP Rの建築家たちが主体となり、本来のバルセロナブルジョワジーの活気が出てきたところが大きいと思う。その建築家の中には、市の助役となり92年オリンピックをオルガナイズしたボイーガス、その前の段階でバルセロナ再建築を実現していった都市計画家マニエル・ソラ・モラーレス・イ・ルビオの存在が大きい。
弟はあの建築家イグナシ・ソラ・モラーレス・イ・ルビオである。このルビオの姓から解るように、彼らも、ジョアン・ルビオを伯父さんに持つルビオファミリーなのである。2004年のバルセロナフォーラムではマニエル・ソラ・モラーレスの弟子のジョアン・ブスケッツによりディアゴナル大通りが地中海まで到達し、
1859年のセルダのエンサンチェプランが150年後にようやく完成している。
ルビオファミリーのバルセロナの建築と街への想いが、新興のバルセロナブルジョワーの新しい力と一体となって、市民戦争、独裁政権を乗り越えを発展させて行ったともいえるのではないかと思う。
今日、黄金の国”ジパング”の由来になったといわれる金色に輝く平泉の中尊寺と極楽浄土の庭の毛越寺が世界文化遺産になったという、うれしい知らせが届いた。
阿弥陀の世界を具現化した極楽浄土の里としてその地方一体含めての認定となったらしい。
今度一時帰国した際には、石山さんお薦めの大屋根が「日本一の茅葺屋根」で山のようと言われる近くの正法寺にも寄って見たい。
この世界文化遺産認定が復興の心の支えとなり、新しい極楽浄土を感じさせる山里になることを期待する。