バルセロナ建築漫遊記

バルセロナからの気ままな発信です。
カタルーニャ州庁舎、サン・ジョルディの間           −ルネッサンス様式の大サロン−

先日のサン・ジョルディの日、カタルーニャ州庁舎の中を久しぶりに見学できたので、サン・ハイメ広場に面するサン・ジョルディの間、ルネッサンス様式の大サロンに描かれた壁画を撮影した。
壁画は1928年に描かれたものなので歴史的価値はそれほどでもないが、カタルーニャにとって重要な12の歴史的テーマを描いている。なので、それを見ると何が彼らにとって重要な歴史的出来事であったかが分かる。
12のテーマの中で最も力を入れて書かれているのが、中央入口上部
に描かれた『コロン(ブス)を迎えるカトリック両王』である。世界的にも有名な歴史的出来事であるけれども、コロンブスが1492年アメリカ大陸を発見したとされ、翌年1493年にバルセロナの王の広場の真中でカトリック両王と謁見している絵である。そこには6人の上半身裸で頭には羽飾りを付けたインディオの姿も描かれている。その中の一人が階段を上がり、何か筒状のものを両王に差し出そうとしている。以前読んだ歴史書によると、四分の一円の階段を上り、宮殿内のティネルの間での謁見をしたとなっていた。でも、ある説によるとその時、フェルナンド王は暴漢に襲われ、怪我をしていて修道院で静養していたとかという話もある。描かれた当時よりも500年も前の話なので、画家は絵になりやすい構図を選び、誇張して頭に羽飾りのあるインディアンを描いたに違いない。コロンブス自身も謎の多い男で、4回の航海をしたが第一回航海では、カリブ海のキューバ島辺りの島々には行き着いたが、アメリカ大陸は発見していない。なので、歴史的史実に基づいたものでなく、このインディオ達の羽の頭飾りはこの画家のイメージした想像上のインディアンの姿であったと思われる。



つまり、歴史というものは、後世の権力者によって都合良く書き換えられれてしまうことがあることを知らなければならないのだ。



『ナバス・デ・トロサの戦い』
1212年7月16日、アンダルシア、ハエン近郊のナバス・デ・トロサでのアラブ、ムアヒド朝カリフとカトリック諸国連合との戦いでカトリック諸国連合が勝利し、レコンキスタの一番大きな意味なある戦いとして位置付けられている。これを機にして、以降1492年までイベリア半島のレコンキスタが続くのである。このカトリック諸国連合は、カステーリャ、ナバラ、アラゴン王国と共に、テンプル、サンチャゴ、カラトラバ、ホスピタルの騎士団連合も加わり、アラブ勢力との壮絶な戦いを繰り広げた。



この戦いの次の年には、約束されていたように、ハイメ1世がモンソン城のテンプル騎士団総長の元に預けられ、アラゴン・カタルーニャの征服王として大活躍する。この絵は、ハイメ1世ゆかりの ポブレー修道院



この絵は、ハイメ1世が1229年マジョルカ島で勝利したときの戦闘の様子を描いたもの。この時にも、サン・ジョルディが現れ、ハイメ1世を勝利に導いたとされている。
このように、カタルーニャの歴史は、全盛期であった15世紀バルセロナ中世ゴシックの時代にサン・ジョルディと13世紀レコンキスタの征服王として活躍したハイメ1世をダブルイメージさせ、サン・ハイメとして神格化して行ったように推察できる。
| u1arc | サン・ジョルディ伝説 | 00:49 | comments(0) | trackbacks(0) | -
征服王ハイメ1世は反アラブの戦神サン・ジョルディの再来!



先週、憲法記念日の連休を利用して3匹の愛犬ダルメシアンと共にバレンシア地方のアリカンテのドックショウに行ってきた。ドックショウにかこつけてその地方の歴史観光をするのが楽しみとなっている。
今回の旅行では、征服王ハイメ1世がカタルーニャのサン・ジョルディ伝説のモデルになっていることを確かめることが目的のひとつであった。7月7日付のブログ「新サン・ジョルディ伝説 モンブランク(Montblanc)  謎のホワイトナイト」では、バレンシアでアラブ勢力と戦って勝利の後、ポブレーに帰れずその地で亡くなったハイメ一世がサンジョルディ伝説と関係が深いという仮説を立てた。
その征服王ハイメ1世がバレンシアのアリカンテの近くの谷間の村Alcoyという場所でアラブ勢力との最後の戦いの末、勝利しアラゴン、カタルーニャ、マヨルカ,バレンシアの4つの国の王になった直後に亡くなっている。
その村にサン・ジョルディ伝説があれば、ハイメ1世との関係が益々強くなる。そしてその村のホームページを見ていたら、サン・ジョルディ橋という立派な橋を発見。サン・ジョルディの日の4月23日にはカトリック勢力がアラブ勢力に勝った日として村の大規模な祭りがあると書いてあった。その橋の袂には、この町が1276年にレコンキスタされたのを記念し、17世紀に建立されたサン・ジョルディ教会があり、100年ほど前にギリシャ正教様式のクープラの円ボールト天井に改築されたとある。1276年は丁度ハイメ1世が死んだ年に当たる。やはり、二人の間にはかなり関係が深そうだ。
この仮説を実証する為に、とにかくこの村に行ってみたくなった。
この村は、アリカンテからバレンシアに抜ける深い谷間にあった。
谷間にあるにもかかわらず、村には大理石を重厚に積み上げたルネッサンス様式の市庁舎、教会、モデルニスモ(スペインアールヌーボー)の立派な建物が目立つ。村の人たちに聞いて、ようやくサン・ジョルディ教会にたどり着く。丁度日曜のミサの最中で、教会内に入る。中にはたくさんの信者が集まってきていて、神父さんの説教が始まっていた。その祭壇の奥には白馬に跨っている騎士が空から現れアラブ勢力をやっつけている壁画が描かれていた。この村にはハイメ1世が戦っている時に、白馬に跨った騎士、サン・ジョルディが現れアラブとの戦いに勝利したという伝説が言い伝えられていることが分かった。やはり、ハイメ1世はサン・ジョルディの再来としてカタルーニャパトロンのダブルイメージとして伝説化したことが実証された。サン・ジョルディ伝説は十字軍カトリック勢力のレコンキスタのシンボル、パトロンとして使われ、15世紀末に広まり伝説化し、現在に語り繋がれているのだ。
スペイン語ではサン・ホルヘ、英語ではサン・ジョージ、現在のアメリカの大統領ジョージも反アラブの戦神のごとくと戦っている。
歴史は繰り返しているのである。
それ故に自分で仮説を立て、歴史から学ぶことの重要性を益々感じる。自画自賛の上からの押し付け歴史観は退屈であるが、このように自分なりに見て行くと目から鱗の歴史が発見でき楽しい。
上の写真1.巨大なコンクリートのアーチで出来たサン・ジョルディ橋。戦勝記念的な仰仰しい古典的なデザインをしている。向こうの橋の両袂に建つ建物もコンクリートの建物であるが、なぜか凱旋門を思わせる古典的で、イタリアの建築家テラーニの「ファッショの家(カサ・デル・ファッショ)」の出来の悪い建築という風。左の方はホテルで、屋上看板に『CONQUISTADOR(征服者)』とある。多分、フランコ時代の遺産建築であろう。
バレンシア地方は、今でもフランコ独裁政権時代を好む政治家が多い所と聞く。ヒトラー然り、独裁者はローマ風の権威主義的な巨大古典建築を好む。
写真2.この橋は、後ろのVの字(Victory?)に切り取られたような山の形に合わせて計画したと考えられる。アラブ時代には、トレドやロンダのようなレンガで出来た下からアーチ上に積み上げた橋が架かっていたことが予想される。
写真3.右側はサン・ジョルディ教会。17世紀スペインルネサンス建築の上にギリシア正教様式の円形ドームを100年ほど前に増築した折衷様式となっている。スペインでは珍しいギリシア正教様式にしたのは、サン・ジョルディが303年4月23日にトルコのカッパドキヤでドラゴンを退治して殉教した聖人ゲオルギウスから来ているのだろう。ここからサン・ジョルディ橋へと続く。多分ここに、ドラゴンに例えられたアラブの王様の城があり、ハイメ1世がアラブ勢力を打ち破って、300年を経た17世紀初頭に一輪の大きな美しいバラに例えられたサン・ジョルディを祀るカトリック教会が建立されたのであろう。この地で1276年に亡くなったハイメ1世を記念して。
| u1arc | サン・ジョルディ伝説 | 11:23 | comments(0) | trackbacks(0) | -
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