バルセロナ建築漫遊記・未来へ

バルセロナから未来への気ままな発信です。
バルセロナ建築漫遊記<建築ノート=Architectural note & エッセイ=Essay>

日本建築学会「建築討論web」

バルセロナ建築漫遊記<建築ノート=Architectural note & エッセイ=Essay>

https://www.aij.or.jp/jpn/touron/6gou/foreign02.html

 

 

 

 

| U1 | 建築史 | 06:46 | comments(1) | trackbacks(0) | -
稲垣史学の地平に期待するもの

このところバルセロナも2ヶ月ぶりにまとまった雨が降り、ようやく秋らしくなってきた。

それにしても3.11以降、最近ではトルコの大地震、タイの大洪水、アメリカ東海岸の季節外れの大雪など世界的な異常気象は続く。

ヨーロッパではギリシアから始まった経済危機、ユーロ安。『砂漠のライオン』の異名を持つ42年間続いた独裁者、リビアのカダフィ大佐も捕らえられ、無残な死をとげた。
こちらの夕食時のニュースでは、腐って青黒くなっている顔が生々しく放映された。

30年前、まだ院生だった頃、黒川紀章建築事務所でリビアのサリールというサハラ砂漠に建つニュータウンのビックプロジェクトに加わった。私は今社長の亀井さんの下で半円形プランで、セットバックしてからハングオーバーするというホテルを担当させてもらっていた。実施図面を纏めている最中にリビア側から地下防空壕を作れという指示が来て、急遽、設計変更でたいへんだったことを思い出した。
設計を通じ、間接的にもカダフィ政権と関わっていたことになる。


今年も残すところ後2ヶ月であるが、本当に激動の2011年である。


建築史学、雑誌第57号が日本から届いた。
この号には4月に行われた記念シンポジウム「稲垣史学の地平」の記録が掲載されている。

4月23日の私のブログ『建築史と建築論との間』では、

『鈴木博之、藤森照信両氏には
「この状況下での日本建築史の貢献は、日本の伝統的建築をどのようにして、普遍性のなかの独自性として位置づけるということではないであろうか。」
という師、稲垣が30年以上前にすでに望んでいた、今後の建築史学の展望を期待したい。』
とあるように、両氏のバトルトークに期待していた。

ところが、今回この記録を読んでがっかりさせられた。

観客としては、正統派鈴木が、悪役を演じた藤森にまんまと場外に誘い出されて、引き分けに持ち込まれてしまったという感じで何かスッキリしない。

コンドル、辰野金吾と日本の近代建築は下手な建築家が創ってきたというところまで言うのであれば、そのことを普遍性の中の独自性として自分の博士論文に位置づけてほしかった。それができていたら、稲垣史学の延長線上の素晴らしい日本近代通史が展開できていたのではないかと思う。

本当に残念なことである。

しかし、このシンポジウムの最後のほうで、土居義岳さんが「つまり、通史というものはおそらく、歴史観であるであると同時に、特に建築観でなければいけないということです。つまり、『メタ建築』とも呼べるかもしれない普遍的なものが、そこにはどうしても必要になってくる、そうでないと建築史の通史は書けないだろう、と僕自身思っているのです。」と力強い稲垣史学をついで行こうという表明があった。

この表明に共感し支持する。


| U1 | 建築史 | 16:12 | comments(0) | trackbacks(0) | -
バウハウスの創設は日本文化が深く影響している!?!
先週末、昨夏の約束通り、ドイツからトマスさん夫妻がイースターホリデーでバルセロナに遊びにきてくれた。
そこにはKatura=桂の成長した姿があった。


昨年8月ドイツに帰る前の生後2ヶ月のKatsura.


今回、10ヶ月のKatsura.

美しいプロポーションでたくましく成長している。茶色のスポットが、黒に近い濃いくっきりとしたスポットになり、きれいにバランス良く配置されている。
さすがに、おじいちゃん犬が今年のイギリス、クラフトのドッグショウでダルメシアンチャンピオン(BOB)に選ばれただけのことはある。

Katsura=桂もその血筋をしっかりと継いでいる。

彼等はカールスルーエ郊外の、庭からそのまま森に繋がっている恵まれた環境の中の一軒家で、建築事務所を営みながら暮らしている。奥さんが近所の犬友と毎朝二時間、週末はトマスが散歩に連れて行くという。二人の子供達は既に独立しているので、Katsuraが来て、楽しく充実した日々を送っていると話していた。

その森はスイスまで繋がっている深い森らしく、Katsuraは救助犬としての訓練をしているとのことである。とても学習能力も素晴らしい犬だと褒められていて、救助犬としての活躍も期待されている。

Katsu,Katsu=カツととても可愛がってくれていて、良い飼主にめぐり会うことができて私たちとしてもうれしい。

トマスと英語で話していたら、彼はカールスルーエ大学出身の建築家で、ワイゼンホフジードルングのあるシュツットガルトにも近いらしい。この地は、bauhausの前身であるドイツ工作連盟(German Werkbund)にも関係が深いらしく、33年前、学生時代にヨーロッパ建築見学ツアーで訪れたことを言ったら驚いていた。彼は時計が趣味でコレクターらしいが、彼の腕時計はバウハウスの建築家がデザインしたものだと教えてくれた。彼のは〇=丸で奥さんのは◇=四角のペアウォッチで、いかにもバウハウスらしい野太い合理的なデザインである。

しかし、いくら環境の良い場所であっても、50キロ程の所には、ドルトムントの原発があり、今回の福島原発のニュースが毎日のようにドイツでも報道されているのでとても心配している。『FUKUSHIMA』は世界中が注目している大事件なのである。
ドイツ人と犬が縁で建築の話ができるとは、良い犬を持つことがヨーロッパでは文化となり、各国の国際交流になってていることを実感する。

これを機会にバウハウスについて少し調べてみる。
すると興味深い事実が発見できた。

バウハウスの前身であるドイツ工作連盟は今までグロビウスが創立したものだと思っていたのが、実はムテジウス(Muthesius1861-1927)によるところが大きいということが解った。
ムテジウスはプロシア(旧ドイツ)の大学で建築を学んだ後、1880年後半にはエンデ&ベックマンの計画した霞ヶ関の旧法務庁舎の赤レンガ建築の建築技師として3年間日本に滞在している。ちょうど伊東忠太が大学生(卒論『建築哲学』は1892年)の頃かと思われる。

その後、在ロンドンのドイツ大使館付の外交官として1902年まで6年間イギリスの住宅の研究をする。その頃にモリス、ラスキンのアーツ&クラフト運動の影響をかなり受けたと思われるが、当時ヨーロッパ大陸で流行していた曲線過多のアールヌーボーは余り好きではなかったらしく、ヴォイジーやグラスゴースクールのマッキントッシュのように直線で構成されているスッキリとした建築デザインに興味があったようである。特にデザイン的に洗練されたマッキントッシュのWillow Tearooms=クライストン喫茶店が好みだったらしい。




98年撮影 グラスゴーWillow Tearooms

そしてドイツに帰国し、これからの建築は手工業のクラフトマンシップから工業デザインの大量生産の規格化が重要であると考え、ドイツ工作連盟のチェアマンとして1910年から1916年務める。
1914年のケルンにおける総会では、芸術家の個人主義を尊重するヴァン・デ・ヴェルデとの規格化推進のムテジウスとの対立が有名な歴史的エピソードになっている。
ヴァン・デ・ヴェルデはベルギー、アントワープ出身の画家、インテリアデザイナーで、パリではBingの日本風アールヌーボーの内装デザインを手がけたことでも有名で、日本文化の造詣も深かったと思われる。また、1908年にはニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」のアールヌーボーのブックカバーデザインでも知られている。

この日本の伝統芸術文化に造詣の深かったこの二人の建築家がバウハウス創立期に、今後の近代建築の方向を決める論戦を戦わせたことは、近代建築史上、重要な出来事であったのではないかと思う。

しかし、ケルンの博覧会では、工業製品であるガラスブロックを用いたブルーノ・タウトのガラスの家があまりにも有名であるが、バウハウスの父とも言われるグロビウスのモデル工場は、「未来派はムテジウスの考え側にあり、ヴェン・デ・ヴェルデ側にないことを証明した。」とペブスナーの『モダン・デザインの展開』にある。

ここで近代建築家は規格化へ向かい、アーティストとの明確な区別がされたのである。

第一次世界大戦が終わり、CIAMが結成された次の1926年にワイゼンホフジードルング住宅展がドイツ工作連盟によって組織された。その時の組織委員長がミースで、コルビュジェ、タウト、シャーロウン、へーリング、ベーレンス、グロビウス、アウト、デッカー等、当時のヨーロッパの指導的建築家たちによりモデルハウジングが建てられた。

そして『モダン建築=Modern  Architectureの原点』とでも呼べる聖地になったのである。

今年一月、バウハウス大学で展覧会と講演をし、この秋、ここシュツットガルトで石山修武展が開催されるとのことであるが、日本人の建築家によるポスト『モダン建築=Architecture』と呼べるような、『FUKUSHIMA』後のこれからの新しい建築理念のモデル提案を石山さんに期待する。

ガンバレ 日本!
!Animo Osamu Ishiyama!

| U1 | 建築史 | 01:44 | comments(0) | trackbacks(0) | -
建築史と建築論との間
今日は聖金曜日。キリスト磔刑の復活祭の重要な日だ。

キリストはこの日に一度死んで、3日後の日曜日に復活したという聖書の記述に基づいた祭礼を行うようになったという。このキリストの復活は栄光の第一の秘蹟=ミラクルとしてカトリックの最も重要なミサとなっている。

その日どりは、325年の第1ニカイア公会議で「春分の後の最初の満月に次ぐ日曜日」と決定され、昨年は4月4日だったのが、今年は20日遅くなった。
この時期、スペインではセマナサンタといってヨーロッパ中が春の観光シーズンとなるが、こんなに遅いイースターは初めてのような気がする。

春の訪れと共に、『復活』を望む人々の意志と祈りがその歴史を創ってきたように思う。
この『復活』によって人間本来の尊厳を取り戻すのだ。


日本から建築史学会の大会記念シンポジウム「稲垣史学の地平」というお知らせが届いた。
震災直後なのでその開催が危ぶまれていたが、大会運営委員の努力により予定通り明日行うことになった。ご苦労さまでした。(今回は残念ながら行けませんが、その様子をYoutubeにアップしてもらえるとうれしいです。)

稲垣栄三が亡くなって今年で10年となり、建築史学会の創設者でその学業功績を讃えると共に、現在の建築史学を再確認し発展させる為の「稲垣史学とは何か」という討論も行われる。

ここに『建築史と建築論との間』という手書きのメモがある。
31年前、建築史を本気で研究していた頃に書き写した稲垣の「建築雑誌 1980年 8月号」の文章である。
そこには、
「1.・・・日本における西洋理解と日本固有の伝統の継承という二つの課題がそれぞれの研究領域の出発点であり、両者併存する状況はこの100年間本質的には変っていない。・・・2.建築を総体として論じようとする知的関心の源泉はヨーロッパの建築的伝統の中にある。建築論(theory of architecture)という知的領域はヨーロッパの建築的発展と表裏一体であって、建築の全体性や普遍性に関する概念は、もっぱらヨーロッパにおいて育成されたものといえるであろう。全体性と普遍性は文化の包括的表現として、また人間の求める究極的な真と美の表現として獲得されたものであって、知的探求が建築によって触発されると同時にその考察が建築の発展に反映する。
とある。

当時、この言葉に多いに刺激を受け、自分を奮い立たせて『建築=architecture』への知の深〜い果てしない森の中へ、一人の冒険者として突き進んで行ったように思う。

このシンポジウムには、鈴木博之X藤森照信のバトルトークが予定されている。
鈴木博之氏は「建築史学 22号 1994年3月」号の書評欄で藤森の労作『日本の近代建築』をこう批評している。

−博物学的ともいうべき技術的分類によって数多くの「派」を立ててゆく本書の後半の叙述には、多少の楽観的単純化が見られるように思われるのだが
と藤森の通史的叙述に疑問を投げかけている。

また、
−「様式」「形式」「用途」の説明は混乱している
と建築の重要な諸概念の曖昧さを指摘されている。

つまり、概念装置がいい加減なものだから建築学術論文とは言いがたいと言われたようなものである。

しかし、藤森は80年代以降、アカデミズムの狭い世界から赤瀬川原平、南伸坊らと共に建築探偵、路上観察しながら、建築を一般にも文化として受け入れられる基盤を作ったと言える。

稲垣が続いて言っているように「一言で言えば普遍化しうる美的構造の不在」ということでなのであるが、私は藤森は日本建築特有の「法則性の欠如、象徴性や情緒性の優位など、固有の性格」を承知で開き直って肯定し、博物学的に日本建築のレッテル貼りに勤しんで行ったように思える。

レッテル貼りで終わらせずに、その先に見えてくる思想的な所まで知りたかったのではあるが・・・

鈴木博之、藤森照信両氏には
「この状況下での日本建築史の貢献は、日本の伝統的建築をどのようにして、普遍性のなかの独自性として位置づけるということではないであろうか。」
という師、稲垣が30年以上前にすでに望んでいた、今後の建築史学の展望を期待したい。

そして新しい稲垣史学の『復活』を望む。




| U1 | 建築史 | 00:41 | comments(0) | trackbacks(0) | -
鉄とガラスのイギリス・モダン建築のルーツは温室
 
 

これはロンドンのキュウ・ガーデンズにあるパームハウスといわれる大温室(1845-7) '98年に撮影した懐かしい白黒フィルム写真。

1851年に開催された世界最初の万博の水晶宮=クリスタルパレスよりも前に造られている。
水晶宮を造ったのは建築家ではなく温室を専門に造っていたパックストンという技術者だったのである。
それも当時建築とはみなされていなかった鉄とガラスの温室がルーツであった。ガラス屋根そのものは18世紀の初めから実用されていたらしい。
それから100年以上の時間を経て、このようなガラスのボールトの大温室が出来上がったのである。

ここまで来ると温室というガラスに覆われた小屋もArchitecture(建築)としてルネサンス風に格調高いものとして認められるようになる。基礎部には装飾彫刻をほどこされた花崗岩の基礎とそのジョイント部分には渦巻き状の装飾止め具など装飾され、鉄という近代工業素材を建築装飾として使おうという努力がされている。






特に大空間を必要とする近代都市生活に必要な鉄道駅舎と市場には、最小限の材料で最大限の空間を造り出すことが可能になった鉄とガラスはその都市機能を満たす建築材料として最適なものであった。

それで1850年以降、鉄とガラスのモダン建築が『建築の世紀末』のイギリスで造られるようになった。
その中でも有名なのが、前回のブログで紹介したゴシック・リバイバル様式のオックスフォード大学博物館、このキュウ・ガーデンズのパウムハウス。水晶宮=クリスタル・パレスは万博終了後、より規模を大きくして再建築され博物館、美術館などの文化施設となったが1936年焼失。

ロンドンの鉄道駅舎ではパッディントン駅(1850-4)とパンクラス駅(1868-74)が有名である。
当時いずれも中世のカテドラルに代わる近代建築として建てられた。





パッディントン駅(Paddington station 1850-4) '98年撮影





サント パンクラス駅(St Pancras Station and Hotel 1868-74)
今回2010年7月撮影したもの。

鉄骨の柱と梁を見ても、カテドラルの石積みの柱と柱頭、リブボールトの様に鉄という近代素材を装飾的構造としている。
アーチ部分、レンガの赤と自然石の白をイスラム建築風に縞状に積んであり、2重アーチのコルドバのモスクの影響が見られる。

水晶宮とパッディントン駅舎の建築に関わったオーウェン・ジョネスは、若き建築家の時に建築グランドツアーをしてギリシア・トルコのビザンチン・イスラム建築を見て回り、それで最後はスペイン、グラナダに6ヶ月滞在し、アルハンブラ宮殿についての研究したそうである。

そして1856年に初めての多色刷印刷の”The Gramer of Ornament”というアルハンブラのイスラムなど装飾に関する本を出す。この本はバージェス −−−>コンドル経由で当時の東大図書館にあったようで、伊東忠太の卒業論文『建築哲学』に「オー、ウェン・ジョ子ス」 萬国模様鑑として引用図書のリストに入っている。

絵、模様、図案の大好きだった若き日の伊東忠太さんはますますArchitecture=建築にのめりこんで行ったに違いない。

今回のイギリス旅行で、イギリスの近代建築は実はグラナダ、アルハンブラのイスラム、ビザンチンのスペイン建築から多大な影響を受け、それがそのまま明治期の日本の建築バージェス =>コンドル =>辰野=>忠太に繋がっている事がわかったのはの大発見だった。




| U1 | 建築史 | 09:11 | comments(0) | trackbacks(0) | -
湖水地方のラスキンの家とゴシックリバイバル運動


先週の日曜日には6匹のダルメシアンの子犬達は2ヶ月となり、無事にもらい手の所へ旅立った。

一番気に入っていた茶ダルの『桂』はドイツの建築家の所へもらわれていった。
磯崎氏のサインの入った桂離宮の本で『桂』のいわれとブルーノ・タウトの説明をしたらこの名前を大変気に入ってくれて、散々迷った挙句にやはり『KATSURA』に落ち着いたとのこと。
ダルは建築家同士の国際文化交流にも一役買っている。

息子のレスターの大学卒業式に出席したついでに久しぶりにイギリスの建築を見て回ったが、さすがにモダン建築発祥の地だけあった見ごたえのあるものが多い。

98年のイギリス旅行の湖水地方のウィンデメア(Windermere)では、ピーターラビットの里で有名なビアトリス・ポターの家を訪ね、この風光明媚な湖水地方が1895年にナショナル・トラスト運動の中心地になったことを知ることができた。

そして、たまたま湖の岸を走っている時に見つけたのがこの瀟洒な白いコテージである。
何とそれは当時(19世紀中頃)イギリス近代社会芸術文化運動の重鎮、ラスキンの家であった。
この湖水地方がいかに文化的水準が高かったことをうかがわせる。

車の事故が偶然にも私をラスキンに引き合わせてくれたのである。

 

 


ラスキンはこの美しい湖の眺めの良い場所に立っていたカントリーハウスを修復し、改築をして彼好みの住居にしていたらしい。そして1900年にこの家で亡くなった。ここを芸術家、批評家、思想家達が集まり拠点にして、ラファエル前派、アーツアンドクラフツ、ゴシックリバイバル、ナショナルトラスト運動のイギリス社会芸術思想を支えたとのことである。インドの独立の父、ガンジーも訪れたという記録がある。
近代社会芸術運動の発信地だったのである。

オックスフォード大学の教授でもあったラスキンは1855−9年にオックスフォード博物館の設立に関わり、ピュージン風のゴシックスタイル建築のディーン(Deane)とウッドワード(Woodward)の案が選ばれた。ウエストミンスター寺院のプランを参考に石積みのゴシックスタイルで、、開口部は尖頭アーチでアーチ部分はビザンチン、イスラム風で赤、白の縞状に積んである。クロイスター中庭回廊を建物中央部にとり、そこを当時の建築新素材、鉄の柱と梁、ガラス屋根で覆った大空間とし、博物館の展示スペースとする。柱頭にもアカンサスの葉のような様々な植物的な鉄製の装飾が施されている。柱頭からは尖頭アーチ曲線の梁が延び天上部で結ばれている。鉄という工業的な素材を装飾でカモフラージュして使っているようである。
中世の職人が手がけたようで手工業的である。

装飾細部にわたってラスキンの好みがこの建築ににじみ出ているように思える。
ガラス、鉄という新しい建築素材を使い、それをラスキンのゴシック好みに細部まで引き寄せていて、新しい建築はゴシックリバイバルとアーツ・アンド・クラフツは一体で進めて行く方向性を付けたと思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このラスキンのイギリス近代社会芸術思想が、日本では明治期(1877)に東京帝大の造家(建築)学科に赴任したイギリス人建築家コンドルによって辰野金吾、伊東忠太へと繋がり、彼の建築進化論へと発展して行ったように思えてきた。
コンドルの師はバージェス(W.Burges)というラスキン親派のゴシック・リバイバリストの建築家で、ロンドンに事務所を構えていた。、辰野金吾も其事務所に留学(1880−83)していたという。其の時に日本の建築の事を尋ねられ、辰野は何も答えられなかったという事が有名な逸話として伝わっている。それが、伊東忠太に『美術建築』を研究させる契機になった事を『建築哲学』の自序に書かれている。

本文の中にも「ジョン、ラスキン」先生の彼の有名なる「セブン、ランプス」(建築の七燈)とあるのでかなり読み込んでいたように思える。

日本の明治期の建築はアーツ・アンド・クラフツとゴシック・リバイバルのラスキンの思想のイギリス正統のモダン建築の流れをくんでいたことがわかった。

 

 

 

| U1 | 建築史 | 19:42 | comments(0) | trackbacks(0) | -
伊東忠太の建築進化論(1)
2月12日はダーウィンの生誕200年に当たる。

「1809年に生まれ、50年後の1859年に進化論『種の起源』を発表している。父親は医者で、ダーウィンはエジンバラ大学の薬学部に進み父を助けたらしい。そして、22歳で大学を終了すると同時に、ビーグル号に博物学者として乗り込み、5年間の世界一周の航海に出る。
ガラバゴス諸島での生物の観察を通じて、生物進化の法則の研究へと向う。」

そしてさらに、このダーウィンの進化論が「世界は神様によって創られた」とする当時のキリスト教社会に決定的な影響を与えたとしている。中世であったら、ガリレオのように宗教裁判によって牢獄、もしくは魔女狩りとして火炙りの刑になっていたであろうが、産業革命真っ只中にあった近代の始まりの社会においてはそうもいかなかったようである。この進化論によって、27%の市民が日曜礼拝ミサに行かなくなったらしい。
このような説明が昨日の新聞LA VANGUARDIA紙に説明されていた。

この進化論によって、ニーチェの『ツラトゥストラ』の近代の「神は死んだ」世界が誕生したのである。

この進化論は日本には明治の文明開化の時に、御雇教授としてアメリカから来たフェノロサによってもたらされた。フェノロサは日本美術の紹介者として有名であるが、日本に於ける最初のダーウィンの進化論の紹介者であった。当時英語の堪能であった岡倉天心がフェノロサの助手としていた。

フェノロサのルーツは、スペインのバレンシアの出で、今もバレンシア近代美術館の近くにフェノロサ通りがある。あまり知られていないが、実は日本美術の価値は、スペイン人のルーツを持つアメリカ人によって発見されたのである。それも、ダーウィンの進化論と深く関係していることが分かった。

この進化論が、生物だけでなく社会進化論として当時最新の社会学の理論として講義し、それを当時学生であった伊東忠太が学んで自身の『建築進化論』へと発展させて行ったのである。

伊東忠太は明治25年(1892年)に卒業論文『建築哲学』を書いている。これは私の修論のテーマであり、30年前当時、東大の建築学科の図書館に通い、毛筆で書かれた忠太の論文を感動しながら手書きで写していたことを昨日のように思い出す。しかし、次序を含め全7巻、684ページの大論文である。途中から、特別にコピーの許しを得て貴重な資料として、現在も手元(バルセロナ)に置いてある。



これは、2006年ラサール大学の建築展の為に作った伊東忠太のパネル 写真は30年前に自分で撮ったものを使っている。

この論文によって、西洋の概念である『建築(アーキテクチャー)』が、建物を建てる技術以上の美術、芸術の概念をも含むとすることを論じる。そして建築士は美術を理解し実践するものであるので工匠(大工)よりも上位に位置するとした。

しかし現在の日本では、必ずしも建築士制度が『建築芸術』を生み出すための制度としては機能していないのは事実で、また『建築が芸術である。』こと自体、社会的にあまり認知されていない。

伊東忠太は幕末から明治期初期にかけてに当時ヨーロッパで流行していたスタイルの折衷様式の建築が日本に入ってきたが、それは『歴史主義』と呼べるようなものでなく、欧米の建築をそのまま移植したに過ぎないとしてその初期の時代を新派(欧米)建築移植期としている。
しかし、明治の文明開化と同時に入ってきた欧米の石とレンガ構造の立派な建物を見て圧倒された。それで明治中期大学卒業の伊東忠太は、建築が芸術であると考えた以上、欧米の物まね建築ではいけないと考え、日本古来の伝統木造建築をそれに近づけようとした。それで取りあえず、欧米の建築と日本古来の建築との『折衷』という現実的な方法で日本近代の建築を創って行こうとしたのが、伊東忠太の『建築進化論』であったように思われる。伊東も言っているが、これは『折衷主義』と呼べるものではなく、『折衷』という現実的な解決方法であると言っているので、日本近代建築史では意識的に主義=イズムを付けるか、付けないかは伊東忠太以降から重要なことであったことが分かる。

ガウディとほぼ同時代を生きた伊東忠太は、同じようにヴィオレ・ル・デュクの建築芸術思想を学生時代に学び、ヨーロッパ中世の建築様式ロマネスク、ゴシック様式を好んだ。40歳を過ぎてから、彼自身の作品と呼べるレンガと石でできたイギリスゴシック風建築に、イスラム風建築のドームの塔を『折衷』合体させたような「真宗信徒生命保険会社(1912年)」を京都にデザインする。この建築は建築スタイルの『折衷』建築であるが、伊東自身の固有の建築スタイルを意識的に進歩発展させようとした彼の『建築進化論』の基づいた、独自の建築デザイン手法なのである。

またガウディでは、初期の作品カサ・ビセンス(1885年)でイスラム建築をスペイン化したムデハール様式を意識的にガウディ独自の建築スタイルに進化発展させている。

そして生涯その建築スタイルの合理性を自身の作品のデザインに反映させようとしてきたところにその共通性を見ることができる。
両者には独自の建築スタイルを追い求めた『歴史進化主義』建築家の共通点が見出せる。

そろそろ、近代以降の日本の建築史を表面的な形態の分類や抄録の写しの紹介だけでなく、もう一度深く建築思想から見直す時期にきているのではないかと思う。

そうすれば、これからの『新建築進化論』の行く方向が見えてくるかもしれない。
| U1 | 建築史 | 20:29 | comments(0) | - | -
建築書の元祖『ウィトルウィウスの建築十書』
先日、バルセロナのカテドラル広場にあるカタルーニャ建築家協会に用があって行って来た。
『本家本元、カタルーニャ州庁舎内サンジョルディ礼拝堂』のブログでも紹介したが、ピカソが建築家協会の建物の為にバルセロナの様子を描いた壁画絵のある建物である。
行ったついでに、久しぶりに協会の図書館を覗いた。せっかくだから普段では見れない本を見たい!衝動に駆られ、司書の人に「ウィトルウィウスの建築書のオリジナルを見せてください。」と言ってみる。
昨年の夏、会報でこの本を買ったという記事が出ていたのを急遽思い出したのだ。日本人だし、初めて見る顔出し、散々訝しがられ、最後に、会員証が必要ですと言われ、入念なチェックをされた。
他の司書が、上の金庫に保管しているからと言って戻ってくると、大事そうに包装紙に包まれ、白い手袋付で「これです。」と差し出してくれる。「コピーはできません。手袋を嵌めて丁寧に扱ってください。」「はい、分かりました。」そして恐る恐る「ケータイで写真とっていいですか?」と聞くと、「いいですよ。」との返事で、少し興奮気味に白い手袋を嵌め、この古い本を開いた。ルネッサンスの時に出された印刷本のオリジナルであるから500年は経っているはずである。

本をめくったときのタイトルの写真がこれです!



人類史上最古の建築書である。本自体は、ローマ時代、紀元前25年頃にマルコ・ウィトルウィウスによって書かれたもので、その後、教会に伝わり、8世紀に最古の写本の存在が確認され、ルネッサンスの15世紀になり、建築家、法学者、美学者である『万能人』アルベルティに見出され研究され、彼の建築書『De re aedificatoria』と同時期1486年にローマで初めての印刷本として出版されている。
この本を調べてみると、最後のベージに1511年のラテン数字MDXIが確認できた。絵入り初版がこの年にFra Giocondoにより出版され広く流布したとあるので、この本に間違いない。ラテン語と中にはギリシャ語の記述が混じっている。ギリシア語の部分を後の人がラテン語に余白に翻訳した書き込みがある。この時、グーテンベルグの印刷機の発明が、中世の神中心の時代から人中心への時代へと正しく天動から地動へとコペルニクス的転回をし、大変革を遂げ、イタリアのローマ、フィレンツェの都市にルネッサンス文化が花開いたのである。最初の『複製技術の時代』がここから始まったといえるだろう。とすると、今のIT『コピペの時代』は『複製技術の時代』の最進化形であり、ケータイで撮った500年前の本が、このようにして簡単にインターネットで見れてしまう。ルネッサンス期以来、産業革命以上に人類にとっての大変革期の時代ということになる。
我々はすごい時代に生きているのだ。神から人、人から次は?物質?モノ...それってもしかして、人からモノが支配する時代へということ?



これはダ・ヴィンチ・コードで有名になった『ウィトルウィウス的人体図』で、レオナルド・ダ・ヴィンチにより、1492年に描かれたものだ。レオナルドはウィトルウィウスを研究したアルベルティの建築書から円と正方形に描かれた人体図を引用していると言われている。『美しい人体のプロポ−ションは幾何学と一致する。』と。この年は偶然にもコロンブスが新大陸を発見し、またイザベル、フェルナンドカトリック両王がグラナダのアルハンブラを征服し、ヨーロッパからアラブ勢力をレコンキスタした記念の年に当たる。

この『ウィトルウィウス建築書』人体図のオリジナル。
円に描かれたもの。



正方形に描かれたもの。



これによるとレオナルドのものは、円と正方形を合体させ、ダブらして描いてあることが分かる。しかも、正方形に描かれた人体の足は閉じらてれいて、左足は直角に開いている。
正方形は人間の住む地上界を、円は永遠神の住む天上界をシンボライズしたものであるから、レオナルドは、これからの人間中心の世界では、天と地の合体は美しいプロボーションでのみ可能であることを言わんとしたのであろうか?
これって、もしかして新たなダ・ヴィンチ・コード...
| U1 | 建築史 | 16:30 | comments(0) | trackbacks(0) | -
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