2月12日はダーウィンの生誕200年に当たる。
「1809年に生まれ、50年後の1859年に進化論『種の起源』を発表している。父親は医者で、ダーウィンはエジンバラ大学の薬学部に進み父を助けたらしい。そして、22歳で大学を終了すると同時に、ビーグル号に博物学者として乗り込み、5年間の世界一周の航海に出る。
ガラバゴス諸島での生物の観察を通じて、生物進化の法則の研究へと向う。」
そしてさらに、このダーウィンの進化論が「世界は神様によって創られた」とする当時のキリスト教社会に決定的な影響を与えたとしている。中世であったら、ガリレオのように宗教裁判によって牢獄、もしくは魔女狩りとして火炙りの刑になっていたであろうが、産業革命真っ只中にあった近代の始まりの社会においてはそうもいかなかったようである。この進化論によって、27%の市民が日曜礼拝ミサに行かなくなったらしい。
このような説明が昨日の新聞LA VANGUARDIA紙に説明されていた。
この進化論によって、ニーチェの『ツラトゥストラ』の近代の「神は死んだ」世界が誕生したのである。
この進化論は日本には明治の文明開化の時に、御雇教授としてアメリカから来たフェノロサによってもたらされた。フェノロサは日本美術の紹介者として有名であるが、日本に於ける最初のダーウィンの進化論の紹介者であった。当時英語の堪能であった岡倉天心がフェノロサの助手としていた。
フェノロサのルーツは、スペインのバレンシアの出で、今もバレンシア近代美術館の近くにフェノロサ通りがある。あまり知られていないが、実は日本美術の価値は、スペイン人のルーツを持つアメリカ人によって発見されたのである。それも、ダーウィンの進化論と深く関係していることが分かった。
この進化論が、生物だけでなく社会進化論として当時最新の社会学の理論として講義し、それを当時学生であった伊東忠太が学んで自身の『建築進化論』へと発展させて行ったのである。
伊東忠太は明治25年(1892年)に卒業論文『建築哲学』を書いている。これは私の修論のテーマであり、30年前当時、東大の建築学科の図書館に通い、毛筆で書かれた忠太の論文を感動しながら手書きで写していたことを昨日のように思い出す。しかし、次序を含め全7巻、684ページの大論文である。途中から、特別にコピーの許しを得て貴重な資料として、現在も手元(バルセロナ)に置いてある。
これは、2006年ラサール大学の建築展の為に作った伊東忠太のパネル 写真は30年前に自分で撮ったものを使っている。
この論文によって、西洋の概念である『建築(アーキテクチャー)』が、建物を建てる技術以上の美術、芸術の概念をも含むとすることを論じる。そして建築士は美術を理解し実践するものであるので工匠(大工)よりも上位に位置するとした。
しかし現在の日本では、必ずしも建築士制度が『建築芸術』を生み出すための制度としては機能していないのは事実で、また『建築が芸術である。』こと自体、社会的にあまり認知されていない。
伊東忠太は幕末から明治期初期にかけてに当時ヨーロッパで流行していたスタイルの折衷様式の建築が日本に入ってきたが、それは『歴史主義』と呼べるようなものでなく、欧米の建築をそのまま移植したに過ぎないとしてその初期の時代を新派(欧米)建築移植期としている。
しかし、明治の文明開化と同時に入ってきた欧米の石とレンガ構造の立派な建物を見て圧倒された。それで明治中期大学卒業の伊東忠太は、建築が芸術であると考えた以上、欧米の物まね建築ではいけないと考え、日本古来の伝統木造建築をそれに近づけようとした。それで取りあえず、欧米の建築と日本古来の建築との『折衷』という現実的な方法で日本近代の建築を創って行こうとしたのが、伊東忠太の『建築進化論』であったように思われる。伊東も言っているが、これは『折衷主義』と呼べるものではなく、『折衷』という現実的な解決方法であると言っているので、日本近代建築史では意識的に主義=イズムを付けるか、付けないかは伊東忠太以降から重要なことであったことが分かる。
ガウディとほぼ同時代を生きた伊東忠太は、同じようにヴィオレ・ル・デュクの建築芸術思想を学生時代に学び、ヨーロッパ中世の建築様式ロマネスク、ゴシック様式を好んだ。40歳を過ぎてから、彼自身の作品と呼べるレンガと石でできたイギリスゴシック風建築に、イスラム風建築のドームの塔を『折衷』合体させたような「真宗信徒生命保険会社(1912年)」を京都にデザインする。この建築は建築スタイルの『折衷』建築であるが、伊東自身の固有の建築スタイルを意識的に進歩発展させようとした彼の『建築進化論』の基づいた、独自の建築デザイン手法なのである。
またガウディでは、初期の作品カサ・ビセンス(1885年)でイスラム建築をスペイン化したムデハール様式を意識的にガウディ独自の建築スタイルに進化発展させている。
そして生涯その建築スタイルの合理性を自身の作品のデザインに反映させようとしてきたところにその共通性を見ることができる。
両者には独自の建築スタイルを追い求めた『歴史進化主義』建築家の共通点が見出せる。
そろそろ、近代以降の日本の建築史を表面的な形態の分類や抄録の写しの紹介だけでなく、もう一度深く建築思想から見直す時期にきているのではないかと思う。
そうすれば、これからの『新建築進化論』の行く方向が見えてくるかもしれない。