バルセロナ建築漫遊記

バルセロナからの気ままな発信です。
わが街サンクガットで生れたミロのタピストリー


ミロのタピストリーの展覧会が、タラゴナの近代美術館で行われているので行ってきた。



7枚の巨大なタピストリーがロヨとのコラボレーションで制作された。そのほとんどが、タラゴナの街にある元製粉工場のアトリエ工房で作られたものであった。この街から世界のタピストリー工房が生れたのである。



一枚目と二枚目の作品の題名は、その街の名前タラゴナ(Tarragona)1と2とある。タピストリー作家のロヨは当時1970年、私の住んでいるサングガットの街にあった工房で制作していて、30歳代のまだ若いアーティストであった。そのロヨを見込んで巨匠ミロがタピストリーの作品に初めて取り組んだのである。そして、最初の作品タラゴナ1(下の写真)が実はわが街サンクガットの街で生み出されたことが今回の展覧会で知ることが出来た。

この最初の作品にはミロのサインだけでまだロヨの名前はない。この作品の成功をきっかけに、工房をタラゴナの元製粉工場に移すことになった。2作目以降の作品は、ミロとロヨのサインが上、下、並んで入っている。最初の作品では、ミロの絵をそのままタピストリーで織り込んだような作品であったが、回を重ねるごとに、普通に染め上げた糸、ファイバーだけでなく、いろいろな材料(その辺で拾ってきたような物とかこうもり傘など)を織込んだり、コラージュしたりと織の新しい試みがなされ、ミロとタピストリー作家ロヨとのアートの世界が体現されている。
この内の一枚がバルセロナのミロ美術館に展示されている。

その中でも1974年に3番目にワールドトレードセンターの為に織られたれた11Mx7Mのもっとも巨大なタピストリーは、あの2001年9月11日にニューヨークで燃えて無くなってしまったとあった。

丁度この日はカタルーニャにとって歴史的に重要な祭日にも当たる。

歴史は偶然ではなく、何かによって動かされ、様々のことが織り込まれたり、コラージュされたりして造られて行くように感じる。


| u1arc | 芸術家 | 00:37 | comments(0) | trackbacks(0) | -
カタルーニャの霊峰モンセラット
モンセラットはカタルーニャの聖山、霊峰として昔から信仰の対象であった。

前回のブログのサンクガットからの眺めからは、女性の横顔のように見える。

先週末、オルガン奏者のIzumiさんから招待を受け、モンセラット南麓にあるコルバト村の教会で行われたオルガンコンサートに行く。この村でのコンサートは今回で2度目である。コルバト村からの近くからの眺めは、屏風岩の如くほぼ垂直にそそり立っていて、とても雄大な眺めである。



セラットはノコギリを意味し、その形からノコギリ山と呼ばれている。



この絵はコルバトの教会の祭壇脇に掛けられているいるものであるが、山の上の所にノコギリの絵が描かれていることに気付く。
また、コルバト村の教会のパイプオルガンは、モンセラットの形状にデザインされていることも今回のコンサートで分かった。



Izumiさんの演奏するJ.S.バッハがオルガンのために作曲した曲が、この中央クープラのボールトに反響し、バロック音楽の荘厳さが建築内に響き渡って感動的であった。




| u1arc | 芸術家 | 18:04 | comments(0) | trackbacks(0) | -
DADA ダダは近代芸術運動の源 その『泉』はバルセロナにあり!


デュシャン、マン・レイ、ピカビア、近代芸術運動『DADA』を代表する芸術家たちの展覧会がバルセロナのモンジュックの丘に聳え立つカタルーニャ美術館(MNAC)で行われている。今回で2回目なのでじっくりと作品を見ることができ、近代芸術とバルセロナの重要性を再確認することができた。



ロンドンにあるTATE MODERNギャラリーからの巡回展で、デュシャンの『大ガラス』『泉』等、写真集で見た名作がズラリと展示してあった。その中でも目を引いたのは、ピカビアのスパニッシュ風の油絵とデュシャンの初期の油絵の風景画の作品の絵の巧さだ。機械仕掛けの作品で有名な『DADAの神様』といわれるデュシャンが、絵を書き始めた頃は実は印象派風の素晴らしい風景絵を描いていた。それは、抽象画で有名なピカソがスペイン古典派の絵をバルセロナの美術学校で描いていたということと共通している。また、ピカビアがスペイン貴族の父を持つパリの裕福な家庭に生まれ育ったアーティストであったことで、パリ画壇で既にピカソ、ダリ、ミロの活躍のベースが用意されていたことが分かる。そのピカビアの作品が今回多数展示されており、デュシャン、マン・レイと共にDADAダダ近代芸術運動をニューヨーク、チューリッヒ、パリ、ベルリンにDADAグループを組織し、欧米の都市に展開し発展させていったのが彼であったことが理解できた。そして、1916年にバルセロナで編集された雑誌『391』がDADAの芸術思想を表現する場となり、コラージュ、レディメイド、写真、映像の新しい手法とメディアでDADAを世界的に新芸術として認めさせることになったのである。

またピカソはマラガ生れであるが、絵画教師であった父のバルセロナ美術学校の赴任で14才の時に来て、モデルニスモ全盛期の19世紀末のバルセロナで『青の時代』が始まり、その後、パリに住みながらもバルセロナを行き来しながら、1904年パリの画廊でピカビアたちと共にクループ展を行い『バラ色(Rosa)の時代』をむかえる。そして、1906年の8月に恋人オリビアを連れバルセロナに戻りバカンスをピレネーの山の村(Gosol)で過ごしている。

そしてその翌年、1907年に近代絵画の革命とも言われる『アビニョンの娘たち』が誕生する。このアビニョンは南仏のアビニョンの町ではなく、ピカソの育った、バルセロナ旧市街のゴシック地区を港の方に抜けるアビニョン通りの娼婦たちを描いたものというのが本当らしい。先週この通りを久しぶりに歩いたが、石造りの古い建物が迫って建っていて昼でも薄暗い通りで、昔ながらの怪しげな酒場が残っていて今でもその面影が少し感じられる。

この『アビニョンの娘たち』の一枚の絵が、キュビスムとしてモダンアートの幕開けとなるのである。ここに描かれた娘たちを見ると、省略された線で平面的に目が大きく描かれた姿はピレネーのロマネスク教会に描かれた壁画を思い出される。オリビアと一緒に過ごしたピレネーの村でのバカンスがこの絵画手法を生み出したのかもしれない。
つまり、近代絵画の誕生は花のパリを舞台に、ピカソという才能ある若いスペイン人芸術家を媒体として、バルセロナ、カタルーニャの伝統と歴史が重要な役割を果たしていたことが解った。

そして、『機械化時代』の近代というエポックは、ダダイズムへと発展し、文化、芸術にも大きく影響していることが分かる。そこでも、スペイン人芸術家ピカビアを中心とした活躍により、世界的芸術運動へと広がって行った。それが1916年にオルガ・サチャロス女史との間でバルセロナで編集企画された、機関誌『391』の創刊による所が大きいことが解ったのは今回の収穫であった。

ピカソは大金持ちとなり、天才芸術家として92歳で死ぬまで充実した生涯を送った最初の芸術家である。それは彼がバルセロナで育ち、カタラン人としてこの土地を愛して、疾風怒涛の青春時代を力強く生き抜いて行ったからではないかと思う。
| u1arc | 芸術家 | 17:39 | comments(0) | trackbacks(0) | -
「鬼才 建築家石山修武」はアーティスト!

昨日は新日曜美術館「鬼才・石山修武“建築にみる夢”」を日本とは一週間の時差で、JSTV海外放送で見る。
自分にとってはかつての師匠でもある石山さんが、25年後、建築家としてどの様に変わったかというのが興味深いところであった。

番組冒頭のところで、自分の建築の特徴を「自力建設」「セルフビルド」と紙に書いたものを示して、新日曜美術館司会者の檀ふみさんにポカーンとされていたのが印象的であった。いわゆる建築家という職業の一般的常識からかけ離れたものなので、檀さんには何のことか理解できなかったのではないかと思う。

「自力建設」「セルフビルド」は、石山さんが1975年『幻庵』で建築界に衝撃的なデービューを果たしてから、ずーと持ち続けているコンセプトで、私もその眩しさに目がくらんで、当時石山さんの事務所のDAMDANの門を叩いたのである。

さらに魅力的だったのは建築の商品化が進んでいた住宅市場に、この『セルフビルド』建築デザイン方法論で打って出ると言う『野武士(の時代)』の石山建築への熱い想いを感じ取ったからである。その当時の建築的閉塞感を漂う時代を石山さんと共に自分が『足軽』として一緒に駆け抜けようとしていたのかもしれない。そして『松葉邸のセルフビルドプロジェクト』を任された。

実は『伊豆の長八記念館』の大成功で、この間、石山さんの『セルフビルド』の建築方法論は置き去りにされてしまったなと少し寂しい思いをしていたのである。

25年後の今、スペインにいながらNHKの番組日曜美術館『鬼才 建築家石山修武』としてこのコンセプトを復活したことが確認でき、これからはアーティストの道を進んで行こうという、石山さん流のしたたかな姿が見られ元気付けられた。

石山さんの背中に漂う『建築のロマン』を背負ったその姿がKAWAIIく思う。


 

| u1arc | 芸術家 | 16:41 | comments(0) | trackbacks(0) | -
偉大なセルフビルダーはダリ!?!

たくさんのタマゴが載っているフィゲーラスにあるダリ劇場美術館


20世紀の偉大な芸術家というと、スペインが生んだピカソ、ダリ、ミロがすぐ浮かぶ。

それで3人とも、バルセロナ、カタルーニャ出身である。(ピカソはマラガ生れであるが、青年期、青の時代の重要な時期をバルセロナで過ごしている。)
その中で、ピカソは『天才』。鬼才『ダリ』と一般に言われている。バカと天才は紙一重といわれるが、天才と鬼才の違いはどの辺にあるのだろうと疑問に思う。さっそく、辞書で検索すると、
『天才』生まれつき備わっている、きわめて優れた才能。また、その持主。
『鬼才』人間とは思われぬほどの優れた才能。また、その才能を持つ人。
とあった。
でも、『天才』も努力の賜物というし、これでは『鬼才』との差異もはっきりしない。この辞書では今ひとつ納得できない。
仕様がないので自分で考えてみる。
この両者の性格を比べると、ダリは、奇人、変人の性格が際立っている。すると天才と鬼才を区別するのは、その人の奇人、変人性によるところが強いのではないかとも考えられる。

ピカソとダリを比べると芸術的評価は、
キュビズムの20世紀モダンアートを生み出したピカソは『天才』で、シュールリアリズム運動を得意の奇抜なパフォーマンス力で盛り上げたダリ『鬼才』と呼ばれるに相応しいのではないかと思う。 
その『鬼才』ダリ自身が10年以上の時間をかけて創った美術館が生まれ育ったフィゲーラスの街にある。

1930年代スペイン市民戦争で焼け落ち、廃墟となっていた市民劇場の場所に自身の美術館を創らないかと、1960年当時のフィゲーラス市長から提案された。その申し出に対し、この劇場の前にある教会で洗礼を受けた思い出深い場所なので願ってもないとして受ける。廃墟であったレンガ、石造りの市民劇場の形式をそのまま残し、ダリ劇場美術博物館として再生する。再生の手法は、ダリの人を驚かせ、楽しませるアイディアで詰まっていて、独創的でワクワクする。建設は、ダリが現場でヘルメットをかぶりながら細かなデテールの指示まで行っていたそうである。この作品はこの部屋、あの大きな作品は舞台の壁と自身のそれぞれの作品に合わせて、建築空間も同時にデザインして行ったもので、10年以上の時間をかけてゆっくりと作り上げていったものだ。
そこにはダリのデザインした濃密な空間で満たされている。世界広しといえども空間としてこれだけ楽しませてくれる美術館は他には見られないと思う。

廃墟であった市民劇場をこのような劇場美術館に再生したダリは『偉大なセルフビルダー』であり、また『鬼才!建築家ダリ』でもある。


新古典主義スタイルの美術館ファサード入口と広場。手前にダリが洗礼した教会がある。
8月は観光客の為に夜間入場もあり、真夜中の1時まで開館している。涼しい時間帯で見られ、またイルミネーションで幻想的と評判である。


フランスアールヌーボーの巨匠ギマールのパリの街灯や、象の骨を使ってコラージュし、パティオ入口部分を装飾している。


フラーに影響を受けて作られたと思われる三角形立体クリスタルドーム。


劇場舞台部分。この屋根部分にクリスタルドームが懸かっていて館内はとても明るい。



ダリは、愛人ガラ夫人と共にジロナ近郊の村、プボウ(Pubol)城に生前に用意したお墓で一緒に眠る予定であったが、その遺志に反し、この劇場博物館の舞台中央にこのように納められた。この写真はダリの亡骸の入っている石棺の蓋。

『人生は劇パフォーマンスだ!』というダリの芸術精神をそのまま表現しているかのようだ。



そして、フィゲーラスの劇場美術館、ポ−ト・リガの『タマゴの家』海の美術館、プボルのダリ・ガラ城美術館と『ダリの大三角形』を形成し、この土地に永遠に刻印しているようだ。
| u1arc | 芸術家 | 11:37 | comments(0) | trackbacks(0) | -
残暑お見舞い申し上げます。


昨日は『ダリの絵』のように時間まで溶け出しそうな暑い一日であったが、今日は一転してパラパラと雨が落ちてきて過ごしやすい。

毎日配達してもらっている今日のLA VANGUARDIA新聞を見ると、『Maestro del manga』という見出しで大きな顔写真入りで赤塚不二夫の死が報じられていた。スペインでも漫画ブームで、子供の時間帯のテレビではドラえもんを始め、名探偵コナン、ポケモンなど日本の漫画で一杯だ。最近ではバルセロナに、日本人が漫画カフェをオープンしたと話題になっている。漫画を通して日本の文化がスペインに浸透してきていて、『KAWAII』が世界共通語になりつつあるのである。
今のスペイン人にとっても、赤塚不二夫の死はダリと同様大ニュースになるのだ。



「人間として『人生を楽しく自由に生きる!』というパフォーマンスに、ダリと赤塚不二夫の芸術家としての共通の生き様を感じる。」と昨日のブログに書いたが、ダリの住んだ家、『通称タマゴの家』がバルセロナから、北へ100キロ程行ったポート・リガという地中海の入江の風光明媚な所にある。(この写真の通りです。)有名なカダケスからは少し奥まったところにあり、ダリの住んでいた当時は、静かな小さな漁村であった。マドリッド大学の学生寮で後の大詩人ガルシア・ロルカと名映画監督ブニュエルと知り合い、共に一夏をここで過ごしている。この浜で撮った若かりし頃の3人の写真が有名である。正に20世紀を代表する芸術家は、ここで遊んで大きくなったのである。写真中央に見えるギザギザの島は、ブニュエルと共同制作をしたシュールリアリズム映画の代表作『アンダルシアの犬』(1928年)に出てくる。

今は、ダリの海の美術館として公開されている。残暑お見舞いの海の写真は、ダリとガラ夫人のベットから鏡を写して見える風景で、地中海から上がってくる太陽と共に愛の生活を楽しんでいたに違いない。Cap de Creusというスペイン最東端に位置するので、その太陽はスペインで最初に見られる日の出となり、最高に贅沢なロケーションである。



元は、漁師の家だったのを、ダリのアイディアで改築に改築を重ね、ダリと愛人ガラ夫人とのアトリエ兼、芸術家のための理想の宮殿に創り変えて行ったのである。ダリのデザインしたウニの殻のような不思議なドームの部屋、



奥に見えるプールサイドのシエスタ用東屋など、そこにはエピキュリアン極みの空間が在る。




ここに半年住み、残りの半年は、ニューヨーク、パリなどの世界の超一流ホテルに滞在し、当時のお金で50万ドルを毎月使うほどの贅沢な生活をしていたとして有名だ。

晩年のダリは、自ら絵筆を持つことなく、絵画助手を5人雇い、1975年から1982年の7年間に500点の油絵と3000点の水彩画を制作したと知られている。最後に自らサインをして高額の作品として世界に流通している。それでもちゃんとダリのサインがしてあれば本物で、流通している75%は偽物であると、ダリの元画商が話している。

ダリはまるで錬金術師のように彼の作品から多額のお金を生み出していたらしい。
羨ましい限りである。
| u1arc | 芸術家 | 18:48 | comments(0) | trackbacks(0) | -
『ダリの絵』のように(時間も溶け出しそうな)夏の暑い一日


8月に入り、私の住むサンクガットの街の商店街もバカンス休暇の店が多くなり、夏のまったりとした時間が流れている。
昨日からアフリカの熱波の影響で内陸部では40度まで上がり、まるでこの『ダリの絵』のように時計(時間)まで本当に溶け出しそうである。

日本から赤塚不二夫が亡くなったとの知らせが届いた。
高校時代、『天才バカボン』のパパ、うなぎ犬、レレレのレ、タリラリラーンのギャグで友人と涙が出るほど馬鹿笑いした日々が懐かしく思い出される。

犬小屋が半分池に浸かっている『うなぎ犬の家』のアイディアの発想は天才的であり、今でも自分の脳内に深く刻み込まれている。

人間として『人生を楽しく自由に生きる!』というパフォーマンスに、ダリと赤塚不二夫の芸術家としての共通の生き様を感じる。

ご冥福をお祈りします。


フィゲーラス ダリ美術館より

| u1arc | 芸術家 | 00:26 | comments(0) | trackbacks(0) | -
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