バルセロナ建築漫遊記

バルセロナからの気ままな発信です。
新国立競技場問題は戦後一番の建築事件だ!
しばらくご無沙汰していました。
2013年1月13日以来ですので、2年半もご無沙汰してしまいました。
この間何をしていたのかというと、正直に言いますとFBに嵌っていたのです。
なんで嵌ってしまったのかを考えてみると、まったく知らなかった人たちとの意見共有の同時性の魅力が一番だと思います。

その最たるテーマが神宮外苑に建設予定の新国立競技場問題です。

もう2年前になりますが、安藤忠雄氏が審査委員長となる新国立競技設計コンペが実施され、流線型のまるで自転車のヘルメットの様な屋根を乗せたザハ案が『躍動感がありスポーツ施設に相応しい』という理由で選出されました。
選ばれる前から敷地近くにある都体育館を設計した槇文彦氏が、そのボリュームと高さにスケールアウトしていると異議を申し立ててきました。
この2年近くの間、この問題に関してFB友たちの間でリアルタイムで熱く議論を重ねてきました。そのことによって、問題の深い所まで認識し共有することができ、ソーシャルメディアの有効性を実感した訳です。その結果、今回の設計コンペは外苑の周辺を高層化しその不動産利権の為に使われたカモフラージュだったことが濃厚となった訳です。それを推進したのが石原元都知事と森元首相で現五輪組織委員長で、彼らが文科省でTOTOのサッカークジで自由な金を使える立場にあるJSCの河野委員長を使って推進していることが明らかになりました。

建築の問題だけにとらわれずに市民レベルの反対運動にまで発展し社会問題化となったのです。
しかし、私たちの問題点を指摘し大反対があったにもかかわらず、当事者の方々は一切聞く耳を持たず, 頑なに『この道しかない』と『粛々と』ザハの案でこの2年近く強引に進めて行きました。
その間に伊東豊雄氏からの国立競技場の素晴らしい改修案がでましたが、彼らは『外野は黙っていろ』という傲慢な態度で栄光の64年東京オリンピックの国立競技場を破壊してしまいました。
ところが、今になって『躍動感がありスポーツ施設に相応しい』という理由でザハの案で突き進んでいたのにもかかわらず、工期と建設会社との見積もりが合わないので、この流線型の屋根はオリンピック終了後になるということが明らかになりました。
これは明らかに『外野』といわれた私たちFB友達の勝利です。
ここまで来ると新国立競技場問題は戦後70年、建築界の一番の事件ということになります。

 
| u1arc | 建築文化遺産 | 19:06 | comments(2) | trackbacks(0) | -
ピレネー噴火口の麓の街Olotにあるソラ・モラーレスの家=Casa Sola Morales



先日SOS Monumentsの仲間達とバルセロナから北へ100キロ程、ピレネーのフランス国境に近いOlotという街へ建築見学に行ってきた。
この見学会での一番の目的は、ドメニク・イ・モンタネールがモデルニスモ様式で改修(1913-1916)した、あのイグナシ、マヌエルを生み出したソラ・モラーレス家の中を見せてもらえることにあった。

この辺はイベリア半島では珍しく40もの噴火口がある火山地形になっている。東ピレネーフランス国境にも近いOlotの街は、その噴火口の麓に造られていることが上の地図でよくわかる。

1万年前には火山活動は停止しているが、1427年と1428年には大地震があり街は壊滅された。それでもすぐに復興し、右上の四角の点線で囲われた旧市街地と川を挟んで中央から左下にかけて20世紀初頭に新市街が形成された。
この新市街地は、キューバのハバナで一儲けをしたIndianos=インディアノス達によって造られた田園都市であったのだ。

日本でも最近、インディアノスとカタラン人に関する研究書が出版され知られるようになった。アフリカからキューバへ黒人奴隷を送り、砂糖とタバコを交換し、奴隷はアメリカ本土へ綿花栽培の労働者として白い綿花と交換されヨーロッパへ輸出され綿繊維工業が発展し、綿布をアフリカに輸出するという、この大西洋三角貿易がヨーロッパの産業革命を引き起こした基盤となっていたと言われている。

特にガウディのパトロンであったグエイ家もインディアノスの一人で奴隷貿易で儲け、カンタブリア地方出身で同じくインディアノスの富豪、コミ−リャス侯爵ロペス家と結婚し、バルセロナの名士にまで登りつめた。

ガウディは、グエイの依頼でにコロニア・グエイの綿工業都市、現在グエル公園になっている所には、新興ブルジョアのお金持ちの為の田園都市を計画している。

19世紀末の1899年、スペイン領であったキューバがアメリカとの戦争により領土を失い、インディアノスがスペイン本土に引き上げてくる。特にカタルーニャ出身者が多く、大金を持って故郷に戻ってきた。世界的にタバコ会社を経営していたマヌエル・マラグリダ(Manuel Malagrida)がプロモーターとなってイギリスの田園都市に倣い、Olotの新市街地を1916−1920に造成区画販売をした。

川を挟んで2つの街区があり、旧市街側は『スペイン広場』を中心に8本の放射状の街路樹大通り=アヴェニューが拡がっていて、コロン=コロンブス橋の向こうにはもう一つの街区の中心、『アメリカ広場』から同様に8本のアヴェニューが放射線状に拡がっている。

インディアノスの脳内イメージを、そのままここOlotの街に都市計画したかのようである。
しかし、ガウディのグエル公園同様、第一次世界大戦の影響で区画分譲地が売れずに最初の計画通りにはならず、スペインとアメリカの2つの街区とそれを結ぶコロン橋、中央広場から広がる8本のアヴェニューの主なインフラだけがなんとか実現されたようである。



インディアノスによる田園都市構想はユートピアに終わったが、それが現在のOlotの閑静な新市街を形成している。

その中でも特に際立っている住宅があった。それもそのはず、スペインのマッキントッシュと言われているジロナ出身の建築家、ラファエル・マソの作品である。
この建築Casa Masramon(1913-1914)はマソの代表的作品で、バルセロナ・モデルニスモ様式の後のノウセンティシスモ=新世紀主義といわれるものだ。マソ自身もウィーンに行っているように、ホフマン等のセセッション・スタイル=様式の影響が見られる。



2階開口部部分に使われている瀟洒な青色装飾タイルは、自身のタイル工場で焼かれたものである。




建物の曲面に合わせ唐門風になっている。



最近博物館として公開されているジロナの彼の自邸は、その繊細でモダンなデザインはマッキントッシュを彷彿とさせる素晴らしいものだ。



ジロナの有名な建物が彩色されたオニャール川風景。中央白く塗られた建築がマソの家で、現在マソ建築家博物館になっている。



マソ建築家博物館のプレート。モデルニスモ後のワインのカテドラル建築家セサール・マルティネイと同様ノウセンティスモ建築家とある。







この建築が今回お目当ての、ファサードがゴージャスでエレガントなソラ・モラーレスファミリーの家。

それもそのはず元侯爵家の邸宅で、1781年にイタリア人建築家、フランセスク・ブリーリによってバロック様式によって創られた宮廷式である。
それがドメニク・イ・モンタネールによって1913-1916に2軒あった建物を一つに纏め、そのファサードに装飾をたっぷりと施した彼のモデルニスモ様式で改築デザインされたものだ。
中央2つのイオニア式の柱に取り付いてベランダを支えている美女たちは、地元Olot出身の彫刻家Eusebi Arnauによるもので、世界遺産のバルセロナにあるカタルーニャ音楽堂の彫刻も彼によるものである。



柱頭にエレガントな渦巻き装飾のあるイオニア様式の女性的な柱+それに取り付く大理石の美人像+少し前に迫り出したなだらかな曲面のテラス+その曲面に合わせ鉄で創られた花と渦巻き装飾の手すりと下部にある鉄格子。

女性的なイオニア様式の柱をベースにしてものの見事にゴージャスでエレガントな建築ファサードをデザインし尽くしている。

この改築された建築は、ガウディのカサ バトリョ(casa Batllo)同様、ドメニク・イ・モンタネールのモデルニスモ建築の最高傑作の一つであると思う。




カテドラルを望むために主寝室に取り付けた歪んだ真珠=バロック風装飾のトリビューン見上げ。



ロココ・バロック宮廷風に絵ががれたゴージャスなサロン。



ピンクの布地でロマンチックにデコレーションされた寝室。



寝室入口アーチ頂点にはソラ・モラーレス家の金の紋章(左半分にソラ=太陽+右半分モラーレス=上部は一本の桑の木と下部には3本の横線が付いている。)




壁には家族のたくさんの肖像画と天蓋付きのベッド。



奥はカテドラルを望むために主寝室に取り付けた歪んだ真珠=楕円形バロック風のトリビューン。



階段室天上部にある格子状のトップライト。



最上階ロマネスク回廊風テラス。



屋根を支える列柱の見上げ。軒先裏は花模様のかわいらしいタイルが貼られている。



バロック風トリビューンの屋根見下ろし。黄色いウロコ状のセラミックの屋根瓦。



下の階のゴージャスな内装とは打って変わって、田舎屋の屋根裏の様な最上階物置スペース。階段室天井のガラスが張られているトップライト部分。



最上階軒裏見上げ。左がオリジナルの屋根、古い大梁に斜め材を入れを補強している。その上に小屋掛けして垂木を渡しスペイン丸瓦を載せた古民家の屋根構造。
右は最近改築知多と思われる4cm厚の薄いレンガをモルタルで繋げたもの。



奥の黒い壁はこの地方で取れる火山石を石灰モルタルで固めた外壁のオリジナル。
手前レンガの壁は間仕切り壁。上と下ではレンガの色、積み方が異なる。
したがオリジナルで上が後で修理した時のものであると推測される。

昨年のガウディの誕生日、6月25日に書いた『バルセロナの新興ブルジョワジーの豪邸建ち並ぶティビダボ山』では、

「それを救ったのが、74年フランコ死後再びカタルーニャは自治を取り戻し、GRUP Rの建築家たちが主体となり、本来のバルセロナブルジョワジーの活気 が出てきたところが大きいと思う。その建築家の中には、市の助役となり92年オリンピックをオルガナイズしたボイーガス、その前の段階でバルセロナ再建築 を実現していった都市計画家マニエル・ソラ・モラーレス・イ・ルビオの存在が大きい。
弟はあの建築家イグナシ・ソラ・モラーレス・イ・ルビオあ る。このルビオの姓から解るように、彼らも、ジョアン・ルビオを伯父さんに持つルビオファミリーなのである。2004年のバルセロナフォーラムではマニエ ル・ソラ・モラーレスの弟子のジョアン・ブスケッツによりディアゴナル大通りが地中海まで到達し、
1859年のセルダのエンサンチェプランが150年後にようやく完成している。

ルビオファミリーのバルセロナの建築と街への想いが、新興のバルセロナブルジョワーの新しい力と一体となって、市民戦争、独裁政権を乗り越えを発展させて行ったともいえるのではないかと思う。」

カタルーニャ近代、バルセロナの建築・都市計画に貢献したのが、このゴージャスでエレガントな邸宅に住んでいたOlot出身のSola・Moralesファミリーだったのである。

| u1arc | 建築文化遺産 | 12:55 | comments(0) | trackbacks(0) | -
クリスマスカード2011(バルセロナバージョン)を送ります 
 
| u1arc | 建築文化遺産 | 23:24 | comments(0) | trackbacks(0) | -
3.11震災後の一時帰国 『極楽浄土の庭』


バルセロナも朝夕冷え込んできて、今年の夏のバカンスも思い出として記憶されて行く。

この夏は今までとはまったく違うものになった。
日本へ一時帰国とピレネーへロマネスク教会を訪ねて2000キロの旅とモデルニズモ建築の華”La ROTONDA”の保存を求めた街頭デモなど行動的な夏であった。

日本への一時帰国では被災された人びとへの冥福を祈る旅となった。
そして、前回6月25日のブログに、「今度一時帰国した際には、石山さんお薦めの大屋根が『日本一の茅葺屋根』で山のようと言われる近くの正法寺にも寄って見たい。」と書いたように、まず第一に訪れたのが、みちのく水沢のお寺、正法寺であった。
この写真にあるように、行った時は蓮の華が咲き始めた頃で、蓮池の向こう側には本当に山のような茅葺屋根のお堂が聳え立っていた。
極楽浄土の世界とはこのようなことをいうのかと想うような祈りの場が広がっていた。
本堂の入口に入ると自然と手を合わし、般若波羅蜜多心経を唱えていた。
初盆を数日前にして被災された人びとへの冥福を祈ることができ、3.11以降自分の中に感じていた重荷を少し下ろすことができた気がした。

受付から本堂内へ行く回廊で住職さんらしい方とすれ違い、「良い声でお経をあげてられていたのはあなたですか。修行の方と思いました。」と言われ、「おそれながら参拝させていただきます。」と恐縮したのを思い出す。

前日の石山さんのオルガナイズした世田谷式生活学校では、難波さんと写真家で淡路の瓦師、山田脩二さんの講演があったので聞きに行った。難波さんとは、友人の来馬君が当時担当していた、銀座のオフィスビルの内見会以来26年ぶりの再会であった。難波さんは小津映画での家族像と住空間に関する話と自分の作品『箱の家シリーズ』についての話された。難波さんの合理主義的な住空間と小津映画の濃密な昭和30年代の住空間の映像とがあまりにかけ離れていると思えたので、講演後の質問時間にその辺とn+dkとの関係についても聞いてみた。
現在の住宅単位、規模を言う時に一般的に使われている、部屋数n+LDKでは捉えきれない住空間を『箱の家シリーズ』で信念を持って展開し、200以上もの作品を生み出し続けていることが理解できた。
また、講演後の飲み会では、学生闘争激しかった当時、n+dkの生みの親とされている建築計画学の権威、今は亡き鈴木成文さん(元神戸芸工大学長)へのヘッドロックで決めたことが難波さんの『箱の家シリーズ』の原点であることが判り、なるほどと納得させられた。
あの時代の熱血建築学生パワーが、住み手に愛される現在の『箱形ロボット住宅』のクリエーターである難波さんを生み出したのだ。

飲み会後、別れの挨拶の時に「明日、気仙沼へ行き、正法寺にも寄ろうと思っています。」と石山さんに告げると、「新しく建て替えられちゃって、前の(山のような)すごい屋根ではでくなっちゃたけどね。」と言われた。

2000年から2006年にかけて本堂の大改修を行ったらしい。
建物全体をジャッキによって1.5mほど上げ基礎石の補修と腐った柱の根元部分を補修。その後、屋根、軒先を解体し、順次補修工事、組み直し工事を行い、最後に屋根の茅を葺くという大工事であった。当初は4年10ヶ月10億円の予算が、7年かかって22億7000万円になった。
今回の地震でも倒れなかったのは、この大改築工事のおかげである。秘密は本堂裏のものすごい重量鉄骨構造で本堂全体を支えた耐震補強工事にあった。
さすが、ここ水沢は小沢さんの地元だけのことはある。



なぜ、こんな巨大なお寺が、みちのくの山の中に建てられたのかその由来を調べてみる。
1348年東北地方初の曹洞宗の寺院として建てられた。曹洞宗の本山は福井の永平寺の禅寺で、川崎の総持寺、の同格として第3の本山として建てられたらしい。当時は1200もの末寺を持つほどの大寺院だったそうな。それが何度もの火災に合い、江戸時代には伊達藩の庇護を受けたものの本山の格を失い、現在は総持寺の末寺となっているとのこと。
そういえば、実家の東京の菩提寺も曹洞宗のお寺なので縁がある。
お江の溺愛した国松が切腹をさせられた高崎城の書院を移築してある先祖の菩提寺の長松寺も曹洞宗であった。
一昨日亡くなったアップルの創業者ジョブス氏も、私と同じ年で、このドラスティクな時代、時間を生き、曹洞禅を学んでいたという。
iPhone, twitterなどなど究極のコミュニケーションの道具を作り出してきた人も、一人で瞑想する時間が必要だったらしい。



正法寺 山門

本堂は江戸後期に伊達藩により再建され、入母屋、茅葺き、正面約35m、側面21m、茅葺きの高さ26m、勾配49度面積720坪の日本一の茅葺き屋根を誇るとある。





今回の震災では被害の少なかった石山さん設計のリアスアーク美術館
屋上に立つ2つの薄ピンクの塔が震災後の気仙沼の街を見守っていた。
向こうの山並みは、現在石山さんによって計画が進められている唐桑半島。



美術館入口、アプローチ斜路の部分。
右にある、茶色の建物の建っている街のオブジェらしきものがグチャグチャに倒壊している。
まるで今回の3.11震災を象徴しているかの様で、これもまた今の芸術作品として存在している。

今、この作品のテーマが浮かんできた。
『3.11震災後の極楽浄土の庭』
とするとグチャグチャに倒壊していたと思ったオブジェも21世紀の新たな庭の石組みに見えてくるのであるから不思議なものである。

作意を超えた自然の力は偉大であるということを実感する。


| u1arc | 建築文化遺産 | 08:02 | comments(0) | trackbacks(0) | -
『移民の街』Sabadellへ歴史的記念建造物の見学会
バルセロナも春のポカポカ陽気となり、SOS.Monumentsが計画したバルセロナ近郊の町、Sabadellへの歴史的建造物の見学会に参加した。

Sabadellは19世紀中頃、150年前のカタルーニャ産業革命期、繊維工場が建ち並びスペインのマンチェスターとも呼ばれるほどであった。
スペインの各地から仕事を求めたくさんの人々がやってきて、『移民の街』として発展してきた。
今は20万人が住んでいて、バルセロナのベッドタウンとしても発展してきている。
私の住むサンクガットからは隣町で20キロ程で近いのだけれど、工場の街特有のスプロール化し、雑然としたイメージだったので、なかなか今まで訪れる機会がなかったのである。

今回の見学会では、スペイン各地から移り住んできた人びと=『移民』たちの歴史的建築モニュメントを一日かけて訪ね歩き、中世都市からどのように近代都市を形成して行ったかを、地元Sabadellを愛する郷土史家による熱のこもったカタラン語の説明で、『移民の街』の生活までより深く知ることができた。

カタルーニャ近代にとって、バルセロナが陽の商業都市とすると、Sabadellは陰の工業都市としてバックでしっかり支えてきたことが実感できた。



Sabadellを流れるRipoll川縁に建つ繊維工場。高いレンガ造の煙突が景観的シンボルとなっている。

1.市民戦争でSadadellに難民として逃げてきた人々の洞窟住居
COVES DE SAN OLEGUER



カタラン語、スペイン語、英語、フランス語の4つの言語と当時、洞窟住居に住んでいた人々の写真付きの丁寧な案内板。

この洞窟住居は昔からあるものではなく、スペイン市民戦争後1940年当時、共和国政府軍としてフランコと戦い破れ、スペイン各地からカタルーニャのSabadellへ難民として逃げてきた人たちが自分達で造ったものだ。住む場所もなく、街の中心から外れた川辺に建つ繊維工場近くのこの斜面に穴を掘り、住み始めたとのことである。

グラナダのサクロモンテ
に代表される洞窟住居がスペイン各地にある。

市民戦争から難民として逃げてきた人々が、本能的に住む為に必要最小限度の『洞窟住居』を自分達の手で造り始めたのだろう。

究極のセルフビルドである。

30mぐらいの高さで日当たりの良い南斜面に3層にわたって掘られ、各住居テラスがこのようにある。各戸、洞窟は2〜3掘られ、1〜2の寝室+DK(ダイニング・キッチン)でテラスの部分にはバラック小屋が建てられ居間として使われていたそうである。
『洞窟』と『バラック』とが融合一体化しており、ここには住宅本来の大地と住居の密接な関係が見てとれる。

これこそエネルギーを必要最小限におさえたパッシブ・エコ住居の原型であるといえる。


この地区には1946年当時119戸あり集落を形成していたが、フランコ独裁政権下で町に住む近代市民からは、貧民の住むスラム地区として差別を受けていたようである。
そして1955年には82戸、500人が生活していたが、その2年後の1957年には市により退去命令が出て閉鎖され、そのまま放って置かれ忘れ、町のゴミ捨て場のような状態であったとのことである。

それが最近になって市の歴史的文化財となり、遊歩道を兼ねた歴史文化的景観地区としてこのように整備され生まれ変った。



この川に流れ込む切れ込んだ沢に掘られたたくさんの洞窟住居群跡。



それぞれの洞窟を覆う鉄格子で中に入れないようにしてある。
ちゃんと景観的にデザインしてあり、アート作品のインスタレーションの様。





洞窟内部。川砂利の混じったもろそうな土。
川に流れ込んだ土砂が固まったもので、簡単に掘れるがもろい。
落盤事故が耐えず、何人もの子供たちが犠牲になったという。

当時の移民たちの、嘆きの歌が聞こえてきそうな洞窟住居群跡であった。


2.この建物は街の中心市街地にあるモデルニスモ建築の洗濯場。
ELS SAFAREIGS DEL CARRER DE LA FONTNOVA

カタルーニャモデルニスモ期1892年に計画され、1960年代まで使われていたが、その後、各住居に水道が整備されるようになると、この建物の役割は終わりこのように廃屋と化した。




市民生活にとって、水がいかに重要であったかを示すものである。
蛇口を捻ればたくさんの水が出てくる市民生活ができるようになったのは、つい最近のことなのであることを実感する。
それをSabadellの近代市民の歴史文化モニュメントとして1997年に修復された。

オリジナルでは扉・ガラリの部分は木サッシであったが、再生されたものは鉄製に変更している。
コストによる所が大きいと思われるが、あえて復元にはこだわらずスッキリとした合理的でモダンなデザインとなった。





近代の泉=水道としてシンプルなデザインで祠のように祀ってある。
上部にはモデルニスモの装飾タイルを貼り、素朴ではあるがシンメトリーで気品のあるデザインになっている。

質素に慎ましく生きる市民ができる最大の感謝の印のようである。



川での洗濯と街の中の新しくできた洗濯場。
当時使われていた洗濯桶と板。石鹸、ブラシ、たたき板のようなものもある。



このテラゾの洗濯台の周りに立ち、Sabadellの女達は、毎日ゴシゴシと洗濯に励んだそうである。



壁には元窓であった所がレンガで塞がれているのが分かる。
この窓から顔を出し、洗濯する女達の姿を楽しげに眺める男達がいたという市博物館員の女性の説明があった。
だから塞がれたそうな。

古い壁一つからも身近な庶民の歴史が見えてくる。
歴史的建造物の保存は自分達の街を知る上でも重要で、この街に住む人にとっては記憶と密接に結びついている。


3.街の中心近くの旧市街、地下に眠っていた建築装飾用テラコッタ・セラミックの窯跡
L'OBRADOR DE CERAMICA DE L'ESCAIOLA



絨毯屋の店内奥の地下にあった18世紀初めの陶器の窯跡を発掘し、アートギャラリーとして再生した。店の主人がその由来を誇らしく詳しく説明した。

2cmの薄いレンガを積み上げて造った、重厚な天井のトンネルボールト。





奥の窯跡。ここでは比較的低温度のでできる建築装飾用のテラコッタ・セラミックを造っていた。


4.カテドラル近くにある1273−1912年、600年以上にわたるSadadellの名士の邸宅
La Casa Duran del Pedregar

15世紀のカタルーニャの大農家=マシアをバロック様式の格式ある邸宅に改築してある。
正面玄関部。半円形アーチの石組みの上部を切り取るように、ベランダと2つの背の高い石積の開口部をシンメトリーに配していることによって知ることができる。
600年を超える歴史の中で、この大農家家はスペインルネサンス、バロック様式と格式のある邸宅へと増改築を重ねて行き現在の姿となった。
2000年に市が130万ユーロをかけ、博物館として保存・再生した。





近くの農園で収穫したブドウを醸造しワイン樽に入れ貯蔵した。
カタルーニャのシトー派のロマネスク修道院の如く重厚な空間である。



建物2階奥の2つの噴水のあるパティオへ通じる出入り口。
スペインルネサンス期、IHS 1578のプレートが付いている。



レリ−フ、絵でカラフルに装飾された天井が高いセレモニー用のホール。



丸い部分は釜の跡で、手前の穴からマキをくめて火を起こし銅製の大鍋をかけ湯を沸かした所。
16世紀この部屋で石鹸を作っていた。
考古学的に発掘調査され、見学用に橋を渡し見れるようになっている。



この場所は中世都市の内城壁に当たり、堀があり水がはっていった所。
壁が折り曲がっているのもその城壁をそのまま建物の壁とした為このようになった。



斜めに入った大屋根を支える大梁。
壁に付いているボツボツはツバメがこの中に入ってくるためのセラミックの穴。
スペインでも虫を取ってくれるツバメは家に幸運を運ぶ鳥として歓迎されていたらしい。

5.旧市街のすぐ外側に広がる新市街に建つ2つのモデルニスモ建築
Despatx Lluch (1908年) Juli Batllevell(1864-1928)



150年前の産業革命期、中世城郭都市の外城を壊し、その外側に道路幅の広い新市街地街区を形成した。バルセロナだけがセルダによるスッキリ整然とした碁盤の目状の格子状街区になったが、マドリッドをはじめとして、他の都市は中世都市の旧市街地を中心にWeb状にスブロール化したゴチャゴチャした新市街の街並になっている。

上のSabadellの名士の邸宅のすぐ近くモデルニスモの建物があった。
Despatx Lluch 1908年 Juli Batllevell(1864-1928)
まるでドメネク・モンタネールとlガウディの初期の建築を合体させた様。

#さっそく家に帰って調べてみると,やはりこの建築家はバルセロナの建築学校ではドメネク・モンタネールに習い、カサ カルベではガウディの下で働いたという記述があった。

#グエル公園で唯一売れた敷地に建っている邸宅を、ガウディの弟子ベレンゲールと共に1903−1906年に完成させている。施主は地元Sabadellの名士で弁護士のMarti Trias。
この時期にガウディは自分の住む家は弟子のベレンゲールに造らせ、現在ガウディ博物館(Casa Museu Gaudi)として公開している。
ガウディの住んでいた家が同時に造られていたことが分かる。
そしてガウディは、1906年ー1925年まで死ぬ間際まで一人でここに住み、彼の建築にうちこむ日々を送った。

グエル公園はイギリス、ハワードの田園都市構想を新興のカタルーニャのブルジョア(burgusia Catalan)モデル住宅地として1900−1914年の間に実現化されたが、実際に売れたのはMarti Trias の一つだけで、ガウディは設計料の代わりにもらったと思うので、結果的に本当に自分の庭として創ったようなものになったのである。
このグエル公園を計画し、彼の元に慕って集まって来る若い建築家と、現場で働く職人と共にプロモーターとしてしても、自分の目指す建築を実現化しながら、14年の歳月をかけ創り上げていったのである。この間自宅は彼の現場事務所として使われていたように思える。

カタルーニャの近代化は、この地に住む実業家グエル伯爵、Sabadellの弁護士トゥリアス、建築家ガウディの三位一体でイギリス、ハワード、オーウェンの社会思想の強い影響を受け、発展させて行ったことが分かった。

そして、第一次世界大戦が始まり、彼のパトロンであったグエルさんが亡くなった後は、サグラダファミリアの教会に彼の考える『理想の建築の姿』を追い求め、建築家としてだけでなく建設継続の為の募金活動をしながら、自ら全てをサグラダファミリアの建設の為に捧げたように思える。

Colegio Religioso de la Sagrada Familia
サグラダ・ファミリア学校
(1909年)

この建物の向かいにはガウディのパラボラ曲線のレンガ積の学校があった。
このパラボラ曲線に見覚えがある。
そうだ!これはガウディのテレジア学院のものだ。
名前を見ると何とColegio Religioso de la Sagrada Familia(サグラダ・ファミリア学校)とある。





レンガでこれだけのパラボラ曲線を造れるのは只者ではない。

#1888年にガウディが計画したテレジア学院が資金不足の為に建設中止となった。その後ガウディはテレジア学院の建設からは手を引いたが、それを20年後の1908年に仕上げたのがこの建築家であったことが分かった。この建物はその次の年の1909年建てられた。
なのでレンガ造のパラボラ曲線の名人であったのである。

その名はGabriel Borrell(1886−1937)

大理石などの高級建築資材を使わずに、パラボラ曲線状に積み上げたレンがと蛇のようにくねくね曲がった装飾した鉄扉、塀、窓格子で合理的にローコストで創られている。



#テレジア学院の庭に展示されているパラボラ曲線の鉄の型枠。
この型枠を使い、ガウディ建築のパラボラ曲線のレンガを積んで行った。

やはり、本物は一目見れば分かる。

テレジア学院の作品が、Sabadellのモデルニスモ建築家から、ガウディ初期のパラボラ曲線の秘密を知ることができたのは今回の見学会最大の収穫であった。

カタルーニャモデルニスモ期、良い建築を創る者同士はどこかでみんな繋がっていて、ガウディ、ドメネク、カダファルクとモデルニスモの建築の巨匠達が、カタルーニャの近代都市へ与えた社会的影響は計り知れない。

バルセロナ近郊の中世都市からの600年を超える『移民の街』SabadellをSOS.MONUMENTSの仲間たちと共に、その石・レンガ造りの建物が、社会変動の激しい各エポックごとに再生=ルネサンスさせながら、重層化してきた都市のダイナミックな歴史を共有することができた。

このダイナミックな都市のルネサンスの方法を今後、現状復旧に囚われることなく、10年20年後の先を見据えた長いスパンで考えた震災後の『Re-日本』の街づくりの為に、是非生かしてもらいたいものだ。

またこれからの日本は、我欲を超え、次の未来の世代に繋いで行こうという東北出身の宮沢賢治の考え方が必要となってくるように思える。

最後まで地震にも津波にも原発事故にも負けない丈夫な体でいたい。

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建築文化遺産を権力から守れ!SOS.Monumentos
 先日1月23日には、動物の守護神、聖アントニオのパレードがあった。
毎年恒例の行事で、今年もわが家のテラスから愛犬3匹と聖者の行進を見守った。



サンクガットの旗を掲げ、3頭の白馬シルクハットに乗馬服でバッチリ決めた正装の紳士達に先導され、馬車の祭壇の上に置かれた聖アントニオが街を練り歩く。
カメラを向けるとこちらの方に手を上げて挨拶をしてくれた。



祭壇は草・花で飾り付けられ、聖アントニオの足元にはどういうわけかブタが寄り添っている。



近くの乗馬クラブの一団。
綺麗に手入れされた馬に正装した乗馬服で決めて颯爽と2列に隊列を組んで歩いて行く。
スペインルネサンス期の16世紀にはスペイン・ハクスブルグ宮廷では華麗な乗馬技術が発達し、それがオーストリア・ハクスブルグ家へ伝わり、今ではウィーンでスペイン式乗馬術として伝統になっている。



本家本元、アンダルシアの正装した乗馬服で決めたお兄さんが見得を切り、自分の馬術の技を披露しているところ。
なかなか格好良い!





ペアで馬のダンスを披露してくれた。



パレードの最後には、馬からの落し物などを回転ブラシ付き掃除自動車で道路をきれいにして今年の聖アントニオの行進が終わった。




先日、歴史的建築・環境を守るNPO団体、SOS.MonumentosのシンポジウムがバルセロナのATENEU BARCELONESで開かれた。ここは150年続くバルセロナの文化人サロンで現在のプレジデントは建築家の重鎮、ボイーガス氏である。

今回のテーマはバルセロナ港、バルセロネタ地区の景観環境保護がテーマであった。
特に埠頭に建設されたボフィールのホテルVELAの高層ビルがバルセロナ港の景観を破壊していると言う市民からの声に答えたものであった。



中央左奥の方に見える帆を張ったような建物がボフィールのHotel Vela。
全てのヨットが帆を降ろしてバルセロナ港に停泊している中、まるでいつも帆を張りっぱなしの大型ヨットの様。

出席者は左からSOS.Mメンバーの司会者、歴史家でバルセロナ大学教授、元バルセロナ港プロジェクトのプレジデント、それにバルセロネタ地区の住民代表。
1980年以降のバルセロナの都市計画プロジェクトの経緯をバルセロナ市長、スペイン首相、州大統領と立ち会った生々しい政治的権力の決定の経緯を交えて説明された。

92年バルセロナオリンピック前のプロジェクトでは、当時の市長のマラガイ氏と助役でバルセロナ建築家の重鎮のボイーガス氏によってマスタープランを作成し、その中で高層ビルの高さをサグラダ・ファミリアの計画予定高さ170mよりも20m近く低い144mに決め、しかも2本だけ選手村地区に地中海の門の如くその軸線上に計画された。

そのマスタープランを持って、2人で80年に同じ社会党政権で当時の副首相でマラガイ氏の前任でバルセロナ市長であったセラ氏のいるマドリッドまで見せに行き、承認されたとのことであった。
2本の高層ビルがマラガイ、セラの会談で4本に増やされたということを聞いたボイーガス氏は、その政治的決定に対しかなり憤慨したらしい。

ボイーガス氏の建築学的信条からすると、都市計画上バルセロナの街はサグラダ・ファミリアの高さ170mを第一に考えた都市デザインであるので、基本的に100mを超える高層ビルは作らせないという基本理念があったと考えられる。
そしてただ唯一許されるのは、地中海からサグラダ・ファミリアへの軸線上にスペインの国旗の紋章にも使われているヘラクレスの柱=P・V・( plus ultra=より他の世界の入口)をメタファーとして考えていた2本の角柱の門の様な近代建築だろうと思われる。
現在のトーレ・MAPFREと元そごうのホテル・アーツの高さ154mのツインタワーである。

このP・V・=Plus Ultraは、ギリシア神話にでてくる『世界の果て』を示すヘラクレスの柱に刻まれた警句『Non Plus Ultra=この向こうには何もない』の反語のようなもので、グラナダ、アルハンブラのカール5世宮の南側ファサードに彫られたものから来ているのではないか。

スペイン建国の歴史的起源のメタファーにもなっている奥深い建築学的図像解釈が、政治的決着で2本から4本に勝手に決められてしまったことに対して、ボーイガス氏の政治権力の傲慢さ、不条理に対して、バルセロナの歴史的都市を愛するが故の無念さ、怒りを察することができる。

92年オリンピックによるバルセロナ都市再生の成功で、それまでは海岸線から100m以内には建築を建てられないという海岸法(ley de costa) で規制をかけられていたが、その抜け道として港地区の再開発の特別条例を新たに設けられた。その地区にはオフィス・ホテルの高層ビルの建設を認める法律が1996年に保守政権PP民衆党のアスナール首相とプジョール、カタルーニャ州大統領の間で取り決められ、それ以降、積極的なバルセロナ都市高層ビル化が政治的に進められたという。

その結果、PSC社会党政権の市の主催した2004年のバルセロナフォーラムに合わせ、バルセロナマール地区の高層化(IIIa Forum 100m),ヌーベルのアグバールタワー144mなどの高層ビルがグローバル化の名を元に何本も計画された。それに対してプジョール州大統領のCIUカタルーニャ保守政権からはボフィールに高層のホテルを造らせろ、それもサグラダ・ファミリアよりも2m低い168mの高さのホテルVELAプロジェクトを打ち上げるという具合に、政治権力と国際的な投資グループ&プロモーターのグローバルな金権力との壮絶で生々しいハゲタカバトルが繰り広げられたそうである。

ジャン・ヌーベルのアグバルタワーは144m33階建て、ビルバオのグッゲンハイム美術館で有名になったフランク・ゲーリーのTriangle Ferroviari148mのサグレラAVE高速鉄道ターミナル駅のプロジェクトも承認されている。
伊東さんのオスピタレット地区のオフィス・ホテルの100mを超える高層ビル群もその延長線上にあることがこのシンポジウムで分かった。

そのレベルでは良心的な歴史建築学的信条は全く相手にされなくなってしまい、セルダの格子状に20m以下に押さえらている美しいバルセロナの街並も、周辺部はグローバル化の名の下にニューヨーク、東京、上海と同じように棒グラフのような醜い高層ビル群が建ち並ぶ現代の都市状に似た新市街が一部形成されたてしまった。

しかし、バルセロナの場合はサグラダ・ファミリアの170mの高さがリミットとして都市計画の重要な押さえとなって効いているので、そんなひどい状況にはならなかったのはガウディ様のおかげである。

それで、168mの高さを持ったボフィールのホテルVELAプロジェクトは、場所を転々と移動し、現在のバルセロナ埠頭の位置になり、高さは80m低くなり88mの少しズングリムックリとした今の姿になったとのことである。

そしてバルセロナの市民からは港の景観を破壊するものとして建築・環境文化遺産を権力から守る運動をしているSOS.Monumentosに助けを求めてきたのである、

一昨日総会が開かれ、主宰のサルバドール・タラゴから建築文化遺産を守った市民団体に対して『SOS.MONUMENTS賞』の賞状が授与された。



今年で12年目を迎えたが、グローバル化の名の下に金権力の政治への圧力が強まってきて、歴史都市バルセロナも重要な伝統・文化遺産が破壊されてきているが、建築文化遺産を守ろうとする市民の意識が高まってきており、これから益々様々な不条理な権力に対して異議申し立てをして、市民を手助けしていくこのNPOの存在意義を感じる。

街を愛しその環境を残さなければならないと考える市民と共に、SOS−MONUMENTSは歴史的建造物・環境を不条理な権力から守っていく。

カタラン語のホームページはこちら。
http://sos-monuments.org/

#総会の帰り道、バルサのカンプ・ノウの横にあるモデルニズモの建物を撮っていたら「私も撮って!」と言われ振り向くと、あまりにもカワイイ女の子だったのでつい思わずシャッターを押した。



!愛嬌があってKAWAII!

| u1arc | 建築文化遺産 | 17:43 | comments(0) | trackbacks(0) | -
続続UCANDONOに会いたくて

 

UCANDONOの下にはアールデコ風に白と黒の大理石に縁取られたニッチの中に、ポリクロミー(多彩色)のモザイクタイルでルネサンス様式のニッチが描かれ、さらにアールヌーボーのミュシャ風の天使が羽を広げ雲の上に乗っている美しい姿がある。



聖窟入口、向かって左側にはイエズス会創設当時からのメンバーがいる。
騎士の姿でひざまずいているのがフランシスコ・ザビエルで、足元に王冠と地球を足元に置いて、修道服姿の中央に立っているのがフランシスコ・ボルハである。

モザイクの石の説明書きを読んでいると教会の人と思われる年配の人が、これからミサが行われると知らせにきてくれた。 「そうか、今日はマリヤ様御懐妊の日=immaculada concepcionの祭日だったな。でも自分はカトリック信者で今日ここに来たのでもないし、どうしようかな』と思っていると、「カタラン語解るか?」とさらに突っ込まれたので、「解ります。このモザイク画に日本の聖人がいますね。」とスペイン語で答えると、「そうか。君は日本人か。」と言われ、親愛の情を込めて左の上腕をギュッと握られる。
祭壇ではすでに司祭のミサが始まっていたので教会から出て行くこともできず、そのまま信者の中に混じり聞くことにする。



ミサが進んでいくと、前に座っていたおじさんが急に床に平伏し祈りの言葉を唱え始める。
司祭の祈りの言葉が抑揚を付けてパイプオルガンの音と融合し音楽的に聞こえてくる。
キリスト教信者でない私も、教会の空間と一体化して忘我の境地へと達する。
ボーとしてきて、ああ、これがイグナシオ ロヨラの『霊操』体験なのかなあという気がした。

ミサの最後で、周りに座っていたみも知らぬ人たちと握手を交わす。
ああ、これがキリストの隣人愛なんだあと納得する。
ああ、これがあるから、欧米ではしっかりとした市民のコミュニティが作れるのだなと実感した。

一日キリスト教宗教体験で教会建築の重要性とヨーロッパ市民のコミュニティが解った気がした。

この聖窟教会にとって、この12月8日の『聖母受胎の日』がとても重要なことが後で調べて解った。
スペインではこの行事を1644年から行っていたとのことであるが、1854年にバチカンのローマ法王より宗教原理として決定された。それでその50年後1904年に合わせてこの聖堂窟教会の改築がポリクロミー(多彩色)で行われることになったそうである。今年は2010年であるので156年後となる。



  •  これは今年の正月のブログで紹介した髑髏を両手で抱いているフランシスコ・ボルハの像

「フランシスコ・ボルハの像。スペイン国王カルロス祇し鷽誓札蹇璽淞觜颯ール浩い梁Χ瓩箸靴道鼎─▲タルーニャの副王になるが、1546年に妻が亡くな ると新たに組織されたイエズス会に入会を決める。1565年に第3代イエズス会総長になり、宣教師を育成するローマのグレゴリアン大学を創設する。イエズ ス会第2の創設者と言われ1671年に列聖されている。」
と書いている。

その時は気が付かなかったのであるが、このボルハはイタリア語でボルジアとなる。あのチェーザレ・ボルジアで『ボルジア家の毒薬=カンタレラ』であった。もともとボルジア家はスペイン、アラゴン王家の貴族で、ローマ法王を2人輩出するというバレンシアの名門である。フランシスコ・ボルハの祖父、フアン・デ・ボルジアは、1才年下の弟チェーザレの指図でローマで暗殺されたとされる。その疑いでバレンシア司教、枢機卿の地位を返上した。また、レオナルド・ダ・ヴィンチはチェーザレの建築技術監督兼軍事顧問として8ヶ月新兵器、城のデザインをしていたという。
バレンシアカテドラルにも繋がり、正にイタリアのルネサンス文化は共時的にスペインの文化であったことが解る。

またまた思わぬ所でイタリアルネサンスとスペインのボルハ家が密接に繋がっていることを発見してしまった。このことは、今年ベネディクト16世を名乗るローマ法王がサグラダファミリアを献堂したことにも関係があるに違いない。

このように『通時的に詳しく見ていくと未来が見えてくる。』と思えたのは今年の収穫であった。


| u1arc | 建築文化遺産 | 10:29 | comments(0) | trackbacks(0) | -
続UCANDONO(右近殿)に会いたくて
 

この聖窟の全室部分の改築計画を最初に任されたのがガウディの恩師、ジョアン・マルトレイ(Joan Martorell)である。1896年に描かれた図面が残されているが、窓開口部、ニッチのプロポーションがゴシックで全体がイオニア式の付柱でルネサンス様式の華美な装飾が施されているものである。マルトレイはヴィオレ=ル=デュクの信奉者でネオゴシック様式の実践者であった。そこで後期ルネサンス(バロック)様式で創建されたこの教会と融合するような建築様式でデザインしたように思える。あくまで中世ゴシック様式をベースとしている。
しかし、実現されたのはこのようなルネサンス&アールヌーボーの装飾折衷様式と呼べるような装飾華美なもので、マルティ・コロナス(Marti Coronas)の絵を元に、モザイク、ステンドグラスはバルセロナのマウメジャン兄弟によるものである。1922年に完成している。(写真下)。



この両側の壁上の部分に聖人達のモザイク画が施されているが、UCANDONOは右上の二つ目にいる。



マルトレイの最初の絵にも聖人達の絵が描かれていたので、もしかしたらガウディもUCANDONOの絵を描いていたかもしれない。

ガウディは丁度この頃(1883−1909)マルトレイの助手としてネオゴシック建築様式の実践を学んでいる。バルセロナ建築学校を卒業した年(1878)に書き始められたガウディの建築論『装飾に関する覚書(レウス覚書)』はヴィオレ=ル=デュクによる建築思想による所が多いので、同じデュクの建築思想でネオゴシック様式の教会建築を実践していたマルトレイの助手となるのは当然の成り行きだったように思える。1883年はネオゴシック様式で計画されたビラールの後を継ぎ、ガウディがサグラダファミリアの2代目主任建築家になる年である。

1880年にはモンセラットの黒いマリア様『モレネッタ』が洞窟から発見され一千年祭が行なわれ、その翌年にはローマ法王によりカタルーニャの守護聖人として布告された年に当る。このことがガウディをより教会建築へと向かわせる契機となったに違いない。

19世紀末の聖窟ブームはバルセロナからもほど近いピレネーの山中の『ルルードの洞窟』が1878年に献堂されてから始まったらしい。

それでこの聖イグナシオ聖洞窟教会もネオクラッシック様式の新しい建物(Ignaci omsによる)を増築すると同時に、聖窟部分の改築もマルトレイに任されたものと思われる。






このネオクラシック建築のアーケード部分には、聖洞窟から続く地層の露出部分に上から垂れ下がった鍾乳石の装飾まで造って聖窟を演出している。ガウディのサグラダファミリアの御生誕の門にも同じような鍾乳石の装飾が施されている。



サグラダファミリアの御生誕の門

きっとガウディはマルトレイでの修行時代にこの鍾乳洞のイメージを御生誕の門にも使おうと考えたに違いない。




| u1arc | 建築文化遺産 | 12:35 | comments(0) | trackbacks(0) | -
UCANDONO(右近殿)に会いたくて

昨日12月8日『immaculada concepcion(聖母受胎)』の祭日、UCANDONO(右近殿)に会いたくてバルセロナ近郊の町マンレサ(Manresa)のイグナシオ・ロヨラ聖窟教会(LA COVA de SANT IGNASI)へ行く。



先週のNHKの番組「歴史秘話ヒストリア」でキリシタン大名、高山右近の壁画がバルセロナ近郊のマンレサという町にあるこの聖窟教会にあると番組の最後で放送されたのだ。

丁度今年の正月のブログにイグナシオ聖洞窟教会を見たことが正月最大の収穫と書いたのであまりの一致に驚いた。さすがNHKのあゆみさん。
 

 

 

1617世紀イエズス会士による初めての西欧文化の影響。当時、日本は大名、侍達の戦国時代。ヨーロッパはスペインのカルロス1世、カール洪誓札蹇璽濤陳襪了代からフェリッペ鏡い離好撻ぅ鵝Ε襯優汽鵐垢硫金期に当る。

と昨年の11月30日に
"Japon : 20siglos de Arquitectura"をテーマにして日本の2000年の建築史についてバルセロナのユネスコで講演行った。
サブテーマは[ルネサンス(再生)とレインタープレット(再構築)―西方からの日本建築に及ぼせる影響]、スペイン語では[Re-nacimiento y Re-interpretacion : Influencia del Occidente sobre la arquitectura Japonesa]

今回、高山右近の壁画があることがわかって安土・桃山時代のイエズス会を通じたスペインと日本との交流が思った以上に深かったことが解る。
利休の一番弟子でキリシタン大名であった右近が、当時のスペインハクスブルグ王室のヨーロッパルネサンスの最高の科学技術(印刷、火薬武器、羅針盤航海術等)、文化を導入し、日本で荘厳でかつ華美な安土・桃山文化の華を咲かせたのではないかという仮説が実証できたと思う。右近は当時の鉄砲、大砲を用いていたヨーロッパの築城術にも長けていたようであるが,ラテン語を理解し渡来した印刷物により最新の知識を得ていたに違いない。
ほとんどのキリシタン大名は秀吉の権力で転向した、いわゆる和魂洋才であったのが、右近殿はキリスト教を深く信じる一人の人間として生涯をまっとうしたように思える。利休が茶道を一つの宗教までで高め生涯をまっとうしたように。

この二人は宗教には権力を超える崇高な力があることに到達した人たちである。

これがUCANDONO(右近殿)のいるモザイク壁画



中央右側にいるのがJUSTO UCANDONOと書かれている高山右近殿である。
JUSTOがクリスチャン名で正義を意味するので『正義の人=右近殿』となる。
一番左にいるのはダルタルニャンの三銃士の王様として有名なフランスのルイ13世。
中央左側はカール5世の庶子でレパントの海戦を勝利に導いたドン フアン・デ・アストリア。エル エスコリアルの王室墓地に眠る。

 

 


そうそうたるメンバーの中で刀を差し、草履を履き、祈りを捧げている一人の侍。日本人JUSTO UCANDONO『正義の人右近殿』はこのバルセロナ近郊の町マンレサで頑張っている。

 

 

 

 

 

 

| u1arc | 建築文化遺産 | 18:29 | comments(5) | trackbacks(0) | -
ロンドン 過去と現代のカテドラル=モダンアート美術館の架橋  ミレニアムブリッジ


 

テートギャラリ−のモネの睡蓮の絵がある間の窓から見た美しいミレニアムブリッジ。ローマのサン・ピエトロ寺院のドームを思わせるイギリスのルネサンス建築家クリストファー・レン(Christopher・Wren)によるセント・ポール カテドラル(St. Paul's  Cathedral)に繋がっている。

レンは外科医、数学者、天文学者、都市計画家、イギリス王室建築家とイギリスルネサンスの万能人であったが、特にニュートンも認めるほどの幾何学の大家であったらしい。建築家としては後期ルネサンスのイタリア、バロック建築家ベルニーニ、ドームはフランスのマンサールの影響が見られるとのことであるが、やはり幾何学が建築の原理としたルネサンスの万能人、アルベルティに近づこうとしたように思える。
こちら南面ファサードは正面入口ではなく建物側面にもかかわらず、建築全体のプロポーション、バランスがよい。以前のラテン十字プランのゴシック様式で計画していたらこのように美しいプロポーションにはなっていなかったように思える。
これはレンが承認されなかった最初のギリシア十字プランにこだわったのは、彼がルネサンス建築家としての信念をもっていたからであろう。

テートギャラリーは元火力発電所であった建築を再生プロジェクトの設計コンペでスイスの建築家ヘルツォク&ムーロンが選ばれ,ロンドンミレニアム2000年に合わせてオープンした。
このミレニアムブリッジはルネサンス様式のセント・ポール カテドラルと現代のカテドラル=モダンアート美術館を結ぶ架け橋の如く計画された。デザイン設計はノーマン・フォスターで構造はオヴ・アラップ社。テムズ川を挟んで向かい合うこの二つの過去と現在のカテドラルを橋桁を低く抑えた2000年の架橋と呼ぶにふさわしいハイテック・ポストモダンな吊橋のデザインとした。

しかし、オープン早々、吊橋特有の歩行振動の共振の揺れで閉鎖されていた。
デザイン優先しすぎたとしてフォスターは非難を受けたが、橋の下に制震ダンパーを付け解決する事ができ、
「臆病と言われるより、大胆なデザインで非難される方がいい。」
とフォスターはイギリスの建築家としての信念を語った。
さすがLord(侯爵)の称号を持つ大建築家の言う事は違う。

過去と現在のカテドラル建築を結ぶ架橋は、フォスター&オヴ・アラップの想定超えるほど揺れが激しかったらしい。







セントポールカテドラルの中央ドームに合わせ、立ち上がりを低く抑えた
吊橋のワイヤー。



中央に巨大な煙突がシンボリックに立つ、元火力発電所を再生したモダンアート美術館



吊ワイヤーのジョイント部分。向こうにはシティにあるフォスターの
弾丸ビルを望む。





TATEギャラリー大ホールへのエントランス



火力発電所のタービンがあったところの大空間をエントランスホール
としている。



コンテンポラリーアート年表
1950年代後半から60年代に起こったポップアート、ネオダダが大きく
扱われている。
日本では荒川修作、赤瀬川原平が日本のネオダダとして登場した。
コンテンポラリ−アートもイギリスでは芸術史になっている。



| u1arc | 建築文化遺産 | 10:41 | comments(0) | trackbacks(0) | -
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