バルセロナ建築漫遊記

バルセロナからの気ままな発信です。
マグラダのマリア伝説1 プロバンスのサン・マキシマン・サント・ボームの顔のないカテドラル



先のフランス旅行で中世初期、隠修修道院が地中海世界から大河を遡り北部ヨーロッパへと広まっていったということを実感したが、その背景には聖母マリアに代わってマグラダのマリア信仰があったことが気になった。

これはファサードが未完成のプロバンスのサン・マキシマン・サント・ボームのカテドラルである。
カテドラルの顔がない!もうすでに何か謎めいている。

ヴェズレーのラ マドレーヌ寺院のマグラダのマリアの聖骸が本物か偽物かをはじめ、マグラダ伝説を生んだ本家本元なので、今回の旅行で是非立ち寄ってみたいと思っていた所である。
ル・トロネのシトー派の修道院に行く途中、ちょっとだけ寄って見た。
すると南フランスなのに黄色に4本の赤い線の入った見慣れたカタルーニャの旗が掲げてある。
これも何かの縁なのか、カタルーニャ、シトー派、プロバンス、マグラダのマリアと繋がり、ますます歴史の深みに嵌って行く気配である。

いろいろ調べてみると、12世紀プロバンスはバルセロナの王様がこの地を治めていたことからそうなったらしい。
その上に白いユリ、フランス、アンジュー家の紋章が付いている。
バルセロナと南フランスは歴史的に深い関係であったことが分かる。
もしかしたら、このマグラダのマリアを調べることによってヨーロッパ中世初期のキリスト教会の謎に迫ることができるのではと思いつく。


このカタルーニャの紋章を定めたのが当時アラゴン・カタルーニャ王であったラモン・ベレンゲール言い任△襦そしてプロバンス伯王であったペトロニラと結婚し、対イスラムの戦略的十字軍国家で地中海世界を中心にカトリックのヨーロッパ中世の歴史を作って行くことになったことが少し見えてきた。

この時期がアラゴン・カタルューニャのベレンゲール言い肇淵襯椒鵐冥仗箸離謄鵐廛覽鎧涼陳好屮薀鵐フォールトとシトー派修道会長サン ベルナールが組んで十字軍運動を活発 化させていた。そして、南フランスのナルボンヌのフォントフロイド修道院から派遣された僧侶が、王立のポブレーの修道院をはじめとするサンタ・クレウス、バルボナ・デ・モンチェスのいわゆるシトー派カタルーニャの三姉妹を創設し、イスラム勢力に対抗するためのバルセロナからバレンシアへ南下する戦略的基盤を作る。その後、モンペリエからモンソン城のアラゴンテンプル騎士団長の元に送られてきたハイメ1世が騎士としての教育を受け、征服王として大活躍することになる。

一緒に送られた同じ年のいとこは、プロベンサに戻りラモン・ベレンゲール浩ぅ廛蹈戰鵐鞠 王として南フランス、ビザンツから聖地エルサレムに繋がる地中海世界に戦略的基盤を作る。この関係からビザンツの首都コンスタンチノープル間の交易も今まで以上に盛んになったろうと思われる。

さらに歴史を遡ると、

313年ミラノ勅令によりキリスト教公認がされ、ローマ帝国が330年コンスタンティヌス帝が今はトルコの首都であるイスタンブールに移し、東西ローマに分裂したと高校時代世界史で習った記憶がある。

現在ではイスラム世界のトルコという印象が強いが、もう一度、自分なりに歴史を解読してみると、東ローマ帝国のビザンチンの首都コンスタンティノープルであった所で、政治的にも文化的にも重要な位置を占めていたことがわかる。そこからキリスト教が国教として定められ、イスラム,ユダヤ、キリスト教による聖地エルサレムの激しい攻防が十字軍運動を活性化し、ローマ法王を中心としたキリスト教国家体制の基盤ができてきたのがヨーロッパ中世の歴史であることが身近に思えるようになってきた。




カルロス鏡ぅ淵櫂蟆Δ13世紀後期、マグラダのマリアの聖骸が見つかったとされる4世紀ガロア・ローマ時代の礼拝堂のすぐ横に壮大なゴシック様式のカテドラルを建てる。その礼拝堂を発掘してみるとそこから遺骨が見つかった。それをマグラダのマリアの遺骨として、正式にローマ法王に認めさせ、ヴェズレーにあるラ マドレーヌ寺院にあるものは偽物としたらしい。そこにはかなり政治的意図が読み取れる。
父親のカルロ1世は当時のローマ法王を政治的に動かせるほどの豪腕な野心家で、シシリア、ナポリを征服し、次は東ローマ帝国のコンスタンチノープルを手に入れ、東西ローマ帝国を再統一しローマ皇帝となることを考えたと思われる。その野心は親元のアラゴン・カタルーニャ王までも、異端とされたカタリ派を擁護する国としてローマ法王の名の下に国王位を取り上げ、アラゴン征伐十字軍を組織しカタルーニャを攻略する。それでバルセロナ北部、コスタブラバの沖合いで海戦(Formigas沖の海戦)となるが、テンプル騎士団はアラゴン・カタルーニャ王ペレ3世(El Rrande)に忠誠を誓い、ロヘール・デ・ラウリア将軍率いる艦隊が勝利する。この海戦で息子のカルロス鏡ぅ淵櫂蟆Δ亙瓩蕕┐蕕譟▲ルロ1世は失意のあまり死に、その野望は地中海へと消える。

対イスラム勢力の戦い以上に、ヨーロッパ域内での覇権を争っていた兄弟親戚を超えた領主王間の複雑な戦いがあったのである。

そのような理由で資金難となり、ファサードが未完で、顔無しのカテドラルまま現在まできているらしい。当時から対イスラム勢力との戦いだけでない、キリスト教社会でのローマ法王、ローマ皇帝、その周りを取り巻くヨーロッパ中の王室の政略結婚をめぐっての争いが、日本の戦国時代さながらの複雑な様相であったことが少し理解できてきた。

その顔はないが南フランス一の規模を誇るゴシック教会に一歩入ると、天上の音楽として高らかにパイプオルガンが鳴り響いて堂内を満たしていた。



この模型は、マグラダのマリアの聖骸が見つかったとされる4世紀ガロア・ローマ時代の礼拝堂の発掘した時のもの。カテドラル内に展示されてあった。771年この礼拝堂にあった遺骨がマグラダのマリアのものとされ、それの一部がヴェズレーのラ マドレーヌ寺院に運ばれて、聖骸として奉られ、1050年にレオン9世により正式に奉献さた。813年にはスペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラでヤコブの骨が発見され、それからヴェズレーはスペインの西の果てにあるサンチャゴへの終点を目指す道として重要な起点となったのである。

あまりにも出来過ぎた出来事のように思われる。ローマ法王とローマ皇帝による対アラブのレコンキスタ戦略でなかったかと疑わせる。また、サン ベルナールが1146年第二回十字軍を招集した所としても有名で、ヴェズレーのマドレーヌ寺院とここプロバンスのサン・マクシマン寺院を結ぶラインはソーヌ、ローヌ川から地中海に出て、聖地エルサレムへの道へと続く戦略的に重要な場所となる。

そこにもローマ法王を中心とするカトリック勢力が、聖遺物を使い戦略的に修道騎士団を使って聖地エルサレムとアラブに支配されていたイベリア半島の2方向へ誘導したものでないかということが見えてくる。

聖母マリアに取って代わったマグラダのマリアとはダヴィンチ・コードによると『キリストの妻』とされ子供を生み、秘密結社に守られ、『王家の血脈』として現在まで続いているというドラマ仕掛けとなっているが、当時どのような意味合いのイコンであったのかを考えてみる。

まず最初の手がかりは
『イエスの昇天後、兄弟ラザロとマルタと共に聖地エルサレムから逃れ地中海を東に進み、南仏のマルセイユ近くの浜に漂着し、晩年はサント・ボームの洞窟で隠修生活を送った後、その一生を終え、サン・マキシマン・ラ・サント・ボームに葬られた。』
という、南フランスに伝わる伝説である。
この伝説は、エルサレムからマルセイユまでの距離が遠すぎるのでローマ時代の1世紀に3人が生きて無事に着いたとは考えにくい。また、東方正教会の伝説によるとマグラダのマリアはイエスの母マリアと使徒ヨハネと共にエフィソで暮らし、その遺骨は886年にコンスタンチノープルに移送されたとしている。

やはり、東ローマ帝国の首都、コンスタンチノープルから聖遺骸として南仏の方へ運ばれていったと考えた方が納得がいく。調べていくと、アトス山のヒランダリウ修道院にある生神女マリアのイコンを見つける。まるでモンセラットの黒いマリア様『モレネッタ』のようである。実はモンセラットのマリア様もベネディクト修道院で、聖母マリアとマグラダのマリアのダブルイメージであるというのを聞いたことがある。アトス山を調べてみると、コンスタンチノープルにも近く、エーゲ海に3本指のごとく突き出しているうちの一つで、アレキサンダー大王の時代から聖地であったという。そこに伝わる伝説が南フランスに伝わるものと似ている。その伝説とは、
『聖母マリアが使徒ジョアンと共に聖地エルサレムを出てジョッパの港からキプロスに住むラザロの所へ航海の途中、大風に会いアトス山近くの浜に漂着した。』
とある。この地域は聖域としてたくさんのビザンツの修道院があり、しかし、距離的にも近いのでこちらの話の方が信憑性がある。

537年にはユスティニアス帝がハギヤ・ソフィア聖堂の大ドーム建築を完成させ,『ソロモンよ。余は汝に勝てり!!!』と叫んだ程、東ローマ帝国の技術・文化水準が高かった。
地震により、20年後の558年に半分崩壊したが、幾何学を専門とする数学者であった小イシドロスにより562年クリスマスの日に献堂式を行っている。
以後この建築様式が教会のビザンチン建築様式のドーム建築のお手本とされ、東はインドのタージー・マハール西はベネチアのサン・マルコ寺院へと広まって行ったに違いない。

この時期から文化度の高かった東ローマ帝国と東地中海交易をしていたカタルーニャ、ユダヤの商人たちが、8世紀偶像崇拝禁止の時に西側へ聖遺物を運んだとも考えられる。最初にプロバンスにマグラダのマリアの聖骸が発見されたのもちょうどこの時期に当たる。

東ローマ帝国にかげりが出てくるのもこの時期で、東から西への技術・文化・人材が『聖遺物』として聖母マリアと魅惑的なマグラダのマリアのダブルイメージで、『聖神女』のイコンに乗せて流出していったのかもしれない。

東ローマ、ビザンチン文化がユークリッド、ピタゴラスのギリシア以来の聖なる英知[ソフィア=Faith(誠実)+Hope(希望)+Love(仁愛)]をギリシャ語で継承し、エジプトのアレクサンドリアを中心とする東地中海世界に広まった。

その知がその後イスラム勢力の拡大と共にアラブ語やヘブライ(ユダヤ)語に翻訳されお互いの文化が共存し合い、東はインド、西は北アフリカからジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島(スペインではトレドが中心)にまで広まったというその辺の歴史的時代背景を理解できていないと、西欧建築史の重要な部分を占めている、神殿と教会の建築様式の成り立ちは日本人には理解しがたいであろう。






| u1arc | マグラダのマリア伝説 | 18:06 | comments(1) | - | -
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