バルセロナ建築漫遊記・未来へ

バルセロナから未来への気ままな発信です。
『ヴィオレ=ル=デュックからコルビュジェへ』          フランス近代・コンテンポラリー建築の文化遺産化を目指すシャイヨ宮建築文化遺産博物館(1)
先週の日曜日バルセロナではオープンハウスがあり、コルビュジェの一番弟子セルトによるスペイン共和国パヴィリオン(Pavello de la Republica)をようやく見ることができた。



この建物は1937年、スペインが当時内戦状態で第二共和国時代の混乱の中、パリ万博の為に建てられたパヴィリオンである。共和国政府がフランコ政権の攻撃に合い、マドリッド、バレンシアと転々とし、この年にバルセロナに移転している。4月にはヒトラーがバスク地方のゲルニカ村を爆撃し、その様子をピカソがペンキで短期間で描き上げ、あの『ゲルニカ』の絵を展示したことで有名だ。

この『共和国パヴィリオン』はカタルーニャの自由と独立の意志を表明するものとして、92年バルセロナオリンピックに合わせ、国際記者村近くのエブロン地区に再建築されたものである。

まるで飾り気のない工場建築のようなファサードで、これが万博パヴィリオンとは思えないような建築である。



グランドフロアは鉄骨のピロティ柱で支えられ、この斜め格子の吊門扉を開けると舞台のあるパティオと一体となるフリースペースとなる。

入った右の壁にはいきなりピカソの『ゲルニカ』がある。
当時このようなに外壁一面ににペンキで描かれた落書きの様であった。
それが現在では人類の遺産としてマドリッドのレイナ・ソフィア美術館に大切に保管されている。



ゲルニカの絵を鑑賞できるようにというピカソの指示を受け、工事中に中央にあった柱を取り除く設計変更したらしい。



ピロティを抜けると奥にはパティオがある。この部分が観客席部分で、ワイヤーが張られているのは日除け天幕の為のもの。グランドフロアーレベルはオープンフリ−になっており、イベントに合わせフレキシブルに使えるようになっている。



基壇の薄茶色の石積み、ゲルニカを展示してある赤く塗られた独立壁。アルマグロ=牛の血色に塗られた鉄骨フレーム。その壁はグレーの波形石綿板。右端は白く塗られたRCのマッスに4つの円形の排気口のある機械室。それを繋ぐ黒の鉄格子の嵌った両端の2つの開口部のある白壁。
それにバルセロナの真っ青な空。

   !!!まるでキュービズムの絵を見ている様!!!

地中海の青空を背景にした幾何学的構成が美しい。
これぞが合致した理想の建築
バルセロナにも程近い南仏のセトで生れたポール・ヴァレリーが『エウパリノスまたは建築家(森田慶一建築論内 訳)』で書かれているいわゆる『歌う建築』である。

安価な工業素材を用いた工場のような機能本位の合理的モダン建築も設計次第で芸術作品になりうることを示している。
この建築理念は当時グロビウスが校長をしていたバウハウスの近代建築の理念でもある。

石山さんの名作『幻庵』もこのラインの延長上にあると思う。



真っ青な空の下、遠くバルセロナの街と地中海の瑠璃色の水平線を望む。



このスペイン共和国パヴィリオンのあった1937年のパリ万博が開催された場所は、エッフェル塔の軸線上にあり、現在は建築文化遺産博物館になっているシャイヨ宮であることが判った。



パリとバルセロナは、ローズラインでREPUBLIC=共和国が一直線で繋がっていたのだ。、



シャイヨ宮建築文化遺産博物館入口。
1878年に開かれた3回目のパリ万博の時に、ナポレオン軍のスペイン、カディスでの勝利を記念して、イスラム・ビザンチン様式で建てられたトロカデロ宮の中央劇場部分を取り壊し、左右の両翼=ウイングの基礎の上に建てられたギリシア・ローマ古典風モダン建築。

神殿を感じさせる人間の寸法を超えた巨大な列柱、
入口の構成とスケール。1937年当時のファシズム建築に通じる建築デザインボキャブラリーである。若き日、建築家を夢見ていたヒットラーの右腕となり、ナチスの建築家として有名なアルベルト・シュペアー設計のナチスドイツパヴィリオンは、ここからエッフェル塔を望む軸線上中央にソヴィエト共産党パヴィリオンに競い合うように向かい合って建てられた。

第三帝国をシンボライズしたと思われる3本の高く聳える柱で支えられた台座には、ナチスのシンボルの巨大な鷲が乗っかっていて、共産主義をシンボライズしたソビエト館を見下ろし睨みをきかせていた。

両パヴィリオンの『プロパガンダする建築』デザインはこの万博で金賞を受賞している。

3年後の1940年、念願のパリに侵攻したしたヒットラーは、シュペアーと共にエッフェル塔を背景にここで撮った写真が残されている。

 

シャイヨ宮建築文化遺産博物館入口をまず最初に出迎えてくれるのが、このMoissacのロマネスク教会の素朴な彫刻、レリーフで埋まっているアーキヴォルト=飾り迫縁の入口。

12,13世紀ロマネスク、ゴシックの中世の建築の修復を多く手がけたヴィオレ=ル=デュックの石膏レプリカコレクションを基にして、最初にフランス歴史的建造物博物館として1878年後にトロカデロ宮に創られたものである。

その後、1937年にシャイヨ宮に改築された時にもデュックのこれらの中世の建築文化遺産を引き継いだ。

その時にシャイヨ宮の建築装飾デザインはヴァレリーが関わったという記述がある。
ヴァレリーは建築芸術に関して若い頃から情熱を持っていたことが知られている。
19歳の時に書かれた『建築家に関する逆説』(1891年)ではその3年前からヴィオレ=ル=デュックの著作『建築事典』『建築講話』を読み込んで丹念にメモを取ってデュックの建築論に心酔していたようである。

そして新しい時代の建築芸術を待ち望んでいた。
それがこのシャイヨ宮の工業製品の装飾鉄骨の梁を渡して採光の為のガラスの天窓の屋根を架けるという建築の内装装飾デザインにも影響を与えていたのではないかと思う。

デュックによるデカルトの方法論の建築考古学への応用に影響を受け、近代フランスの知識人=ヴァレリーを生み出すことになったと思われる。
近代の新しい建築様式を生み出す為には、フランス中世の建築のデカルトの方法論による徹底した分析とその時代に合った綜合が必要と考えていた。



それで現在は、2階のモダン&コンテンポラリー建築展示階になっているコルビュジェのマルセイユのユニテの住居単位が原寸大で再現されている。





| U1 | コルビュジェ | 23:29 | comments(1) | trackbacks(0) | -
コルビュジェの近代建築を世界遺産にするフランスの文化力    『教育・文化としての建築=アーキテクチャー』

 

地中海からの西日を浴びる彫刻的なマルセイユのユニテの屋上

モデュロールの幾何学的な黄金比率から割り出された直線的なこの建築で、唯一有機的曲線で造形的にデザインされている換気塔。
ガウディのカサミラをコルビュジェが近代建築としてRe-interpretしたかのように思える。

マルセイユのユニテはバルセロナのカサミラへの
コルビュジェからガウディへのオマージュ=賛歌として




可愛くモザイクタイルを貼った託児所の外壁と有機的曲線の換気塔の間から黄昏時の地中海を望む。



モデュロール(黄金尺)の概念を表現したエレベーターコア
聖櫃の如く据えられた『尺度の碑』
建築の一本一本の全ての線には根拠があることを言わんとしているかのよう

――――――――――――

先々回のブログでこのコルビュジェの計画+デザインしたマルセイユのアパートが『モデュロール(黄金尺)』を使って創られていることを書いた。

そうしたらこの『モデュロール(黄金尺)』を使えば、誰でもコルビュジェのような芸術的な建築ができるのではと考えても、そうならないのが建築をデザインすることの難しさである。コルビュジェが言うように『モデュロール(黄金尺)』はあくまでもピアノのおける鍵盤に過ぎず、どう演奏するかは演奏者の力量にかかっているのである。

最大の傑作とされるロンシャン教会もベースは『モデュロール(黄金尺)』であるが、最後はコルビュジェの造形力であの形が生み出されたのである。

20世紀のモダン建築はコルビュジェをお手本としてきたといっても過言ではないと思う。



このモデュロールは抽象的な比例と尺度だけでなく、近代工業化した建築生産の標準化、合理化した建築工法まで建築に関わる全てを考えているところがコルビュジェのすごいところである。

マルセイユのユニテでは住居単位として中廊下にメゾネットタイプの住戸を組子細工のように両側から入れ込む=『スケルトン イン フィル』というイメージで計画された。

最初に鉄筋コンクリートの大きな構造体(巨大なピロティの柱に支えられた床を底スラブとし3階の高さごとに柱で床スラブを立ち上げて行く多層ドミノ工法とも呼べるようなコルビュジェ独自のユニークな建築工法である。)を造ってから、最初の計画では住戸単位を鉄骨でフレームで造り『スケルトン イン フィル』というイメージで、外側から差し込みたいと考えたようであるが、現実的には419cmスパンの鉄筋コンクリートの梁に現場で鉄骨の小梁をわたして床を支えている。
たぶん、予算、当時の技術水準を考えた工法など現実的には『スケルトン イン フィル』は合理的ではなく、不可能で諦めたと思われる。

そのコルビュジェの諦めた『スケルトン イン フィル』の工法を21世紀の現在は可能だよと教えてくれているのが、マルセイユの住居単位=ユニテの再建築教育プログラムである。
ここでは『住居単位』の進化系として重量鉄骨でスケルトンが組み上げられている。

日本で行われたコルビュジェ展に先立ち、3年前パリの建築博物館シャイヨ宮で行われていたと今になって土居さんのブログで知った。

原寸大の住居単位が復元+再建築が21世紀のフランスの高校の教育プログラムとして2001年から2007年にかけて行われていた国家的プロジェクトだったことが、サンジョルディの日に妻からプレゼントしてもらった本『ECHELLE LE CORBUSIER(コルビュジェの尺度)』に詳しく書かれていた。

21世紀文化プロジェクトとして国を挙げてモダン建築を認めさせようと、高校の教育プログラムから立ち上げ、国民的エネルギーを文化に注ぎ込むフランスの文化力には凄いものがある。
昨年、コルビュジェの近代建築、日本では上野西洋美術館がユネスコの世界文化遺産の登録が残念ながら見送られたが、これも時間の問題であると思う。

日本も21世紀の文化戦略として、『 教育・文化としての建築』を世界文化遺産好きのもっとたくさんの日本人に分かってもらう必要性を感じる。

#先回プログでお知らせしたグランカスカダのTVコマーシャル撮影の件
滝が美しく見える玄関ホールがお茶を飲むスペースとしては少し狭いということで、ティーカップがスポンサーの今回の撮影には向かないのでパス。


| U1 | コルビュジェ | 17:01 | comments(0) | trackbacks(0) | -
コルビュジェのマルセイユの住居単位はモデュロール寸法の原点
 

これがコルビュジェのマルセイユの『住居単位』モデュロール(黄金尺)寸法の原点である。
(昨年の今頃撮影)

コルビュジェ特製、腕を上げた人体と黄金比=0.618で9分割した身長の赤系列との腕を上げた時の青系列の尺度を表現したもので、特別にステンドグラスにしてデザインしたものである。



腕を上げた人間の高さを226cmを基準とした正方形の透明ガラス窓に、一辺が53.4cmの正方形の『モデゥロール(黄金尺)』のイコンが嵌め込んである。



まるで聖櫃の如く据えられたモデュロールの礎石(183x86x86)
最初の計画ではガラス窓の原点の前に据えられる事になっていたが、現在の右側になった。
この8mx13mのコンクリート壁に、モデュロールのコンセプトがデザインされている。

エレベーター塔の中心軸に『住居単位(L'Unite D'Habitation)』の原点として、コルビュジェがこの位置に決めた。エレベーター塔の梁を外壁まで突き出し、その中心線の垂直線と人間の基準寸法を183cmとした水平線の交点を原点としている。
もう一つ重要な寸法はへその高さで183cmを黄金比=0.618をかけて導き出された113cmとなる。
手を上げた人の高さは226cmは臍の高さ=113cmの2倍となる。
つまりこのガラス窓は臍の高さの正方形113x113を4枚使ってできたものである。

まるで中学校の幾何学と数学の問題を解いているみたいな建物のデザイン。

これが幾何学と代数学に基づいている西欧の建築=アーキテクチャーの原理なのであった。
ルネサンスの万能人といわれる建築家のほとんどは数学者であったのはこのことから来ている。
この数学的尺度が美しいプロポーションを生み出し、統一と調和の取れた空間を生み出すという考え方である。

特にパルテノン神殿に代表されるギリシア建築は厳密な幾何学・数学的体系によって導き出されているので、コルビュジェはそのアクロポリスの神殿廃墟を見て『機械のように美しい建築』と感動したと建築家になる前の東方旅行(1907)に書き綴っている。

それから40年の時を経て『モデュロール』としてコルビュジェの『モダン建築の設計方法論』として確立したのである。

『モデュロール』の正式のタイトルは『建築及び機械のすべてに利用し得る調和した尺度についての小論』となっていて、ギリシア・ローマ=>ロマネスク・ゴシック=>ルネサンスと歴史的建築を深い所から分析し、機械の時代の近代にも合うように『レ・インタープレット(Re-interpretacion)』したものだったのである。

コルビュジェはこのマルセイユの『住居単位』の事を『これは中世から今日へ掛けられた橋である。』と書いている。

しかし、その建設に1946年から52年まで6年の年月がかかり、彼の考えた『モデュロールの建築理論』でこの建築を実現化するのはまるで戦争のようであったという。その道を阻んだのが、以外にもコルビュジェの新しい理論を理解しようとしない同業の建築家とその組織者であった。

今では偉大な建築家と奉られているコルビュジェも、当時は建築家を職業とする大多数を敵にまわし独り頑張ったようである。
日本で考えられている『モダニズム建築』のイメージ=コンクリートの四角い箱とは程遠いものなのである。

それだけのコルビュジェのパワーをもってできた『マルセイユの住居単位』は、近代化社会においてユニテ=統一と調和をフランス国歌(ラ・マルセイエーズ)の如く謳い上げている偉大な建築詩=歴史的建造物であると思う。

やはりガウディとコルビュジェの建築パワー=建築を建ち上げる意志はズバ抜けている。







| U1 | コルビュジェ | 12:09 | comments(0) | trackbacks(1) | -
ルドゥーからコルビュジェへ  ―ラ・トゥーレット修道院―
今日9月11日はカタルーニャの祭日『DIADAである。
バルセロナのTI事務所での一年間の建築実習を終え、息子がイギリスのレスターの大学へ戻って行くのを空港まで見送った。

この間事務所での仕事もさることながら、世界中いろいろな所から来ている若い優秀な建築家たちと知り会い、建築と真剣に向かい合うことができ充実した時を過ごしたようである。彼の場合、日本語、スペイン語、カタラン語、英語とネイティブの人たちと自由に溶け込めるのが羨ましい。

先週はイギリスに戻る前に「ルドゥーの製塩工場をもう一度見たい。」という彼の要望でフランス建築見学旅行を計画し、4千キロの道を走って来たところである。

 バルセロナから途中キュービズム発祥の地であるセレット村に立ち寄りピレネーの山で一泊し、次の日ナルボンヌからモンペリエまで地中海岸を通り、それから太陽高速(Autoroute du Soleil)でひたすら北上しリヨンの町で降りる。リヨンはフランス中央に位置する大都会である。そこから郊外にあるラ・トゥーレットの修道院を目指すが、カーナビ無しのグーグルの地図だけがたよりの車旅である。30年前以上前の学生時代に行った建築見学ツアーであったら寝てる間に目的地まで連れて行ってもらえたが、自分で調べて行くとなるといかに難しいところであったかがわかる。散々迷った挙句、親切なフランス人ファミリーに慣れないフランス語で道を聞き、夕方近くになって、やっと到着できた。建築見学旅行は家族旅行としては少々過酷なものである。今回はベルとランはブリーダーの家、カン・コイに預け、マツも同行することになった。

 小高い丘の牧草地の斜面に建つ鉄筋コンクリート打ち放しの修道院が現れた。東側ファサードは足場が組まれ、網がかけられ改修中であった。そういえば、32年前に来たときはコンクリート打ち放しの施工が悪く、あまりこの建物を好きになれなかったことが記憶に残っている。竣工から50年経ち、コンクリ−トの痛みが激しく修道院として機能していないらしい。

改修工事計画の看板が出ていいる。



それによると、第8フェーズの南と東のファサードの改修工事とある。この工事だけでかかる金額は42万ユーロ(約6億円)、国と州政府が半分ずつ負担している。これで一連の改修工事が終わりそうで、来年は世界文化遺産として正式に登録してもらえそうである。



前に来たときは、施工の悪さが気になりとてもこの建築を鑑賞するという気にはならなかったが、今回はコルビュジェの計画コンセプトを知ることができ、また近代建築が彫刻、巨大オブジェとしてアートになっていることが確認できた。

この作品はロンシャン教会同様、建築空間が音楽まで高められている。











シトー派ロマネスク修道院の幾何学の原理でデザインされた石積みの重厚な回廊を、コルビュジェの発明した黄金尺『モデュロール』を用い、クセナキスとのコラボで軽やかにピロティの空中回廊をコンクリートという近代材料で見事に現代にインタープレットしている。

今回の改修工事によって、今では当時の施工の悪さが逆にコンクリートの質感にいい味を出していて、歴史的近代建築の風格さえ感じる。

今回の旅で“La Tourette"修道院が、コルビュジェとクセナキスがセッションを組み、ジャズっている素晴らしい建築作品であることが分かり楽しめた。

これからルドゥーの製塩工場を目指し、さらに北上する。
| U1 | コルビュジェ | 23:46 | comments(0) | - | -
近代建築が音楽になった−コルビュジェの最高傑作ロンシャン教会−
    

この写真は2002年、夏、バルセロナからずーと北上し、フランスの世界文化遺産で呪われた建築家の異名を持つルドゥー・ショウの製塩工場を見た次の日、アムステルダムへ行く途中に寄ったコルビュジェの最高傑作ロンシャン教会である。(De Ledoux a Le Corbusier)

建築学生時代に初めて見た時は、写真で見るよりもあまりにもこじんまりしていていたので、期待外れでがっかりした記憶があったが、この時は学生時代の時とは違う感動を得ることができた。

それは、この山の上にどのようにしてこのような自由曲線のフォルムの鉄筋コンクリート造の建築を創ることが出来たのだろうかという驚きであった。自分だったら創れるだろうかという自問がまずあるのである。それは評論家の目ではない、建てる側、建築家としての目である。
その想像、理解を超えてしまうと、巨匠だ、天才だ、鬼才だという評価になるのであるが、この建築は今でもそのレベルにある。

やはりコルビュジェは巨匠だ。 天才建築家だ。
と。

コルビュジェ中期までの作品、少しの規準線で構成された幾何学的で白く塗られたインターナショナルスタイルであったら、日本の建築家も『コルを掴む』ことができたのであるが、ここまでくるともうお手上げである。
『コルビュジェらしくない』と言って呆然とし理解不能の状態となり、そして新たに日本建築の伝統美によりどころを求めるようになったように思われる。

私はロンシャン教会のようにここまで芸術の域に達している近代建築作品は今までお目にかかったことがない。ゲーテは『建築とは凍れる音楽』と言ったが、この教会は正しく音楽となっており、ポ−ル・ヴァレリーの『エウパリノスまたは建築家』(1923年 森田慶一訳)で言う『歌う建築』ではないだろうか。

ピューリズムに始まったコルビュジェの近代建築が、時を重ねるごとに熟成し、ロンシャン教会のような有機的フォルムの音響的な近代建築を生み出すに至ったのである。その時に音階の役割をしているのが、コルビュジェが発明した建築音階『モデュロール』で、現代音楽生みの親の音楽家でギリシア出身の建築家、クセナキスと共にこの音響的建築をそれぞれの感性で作曲して行ったと思われる。
















| U1 | コルビュジェ | 03:10 | comments(0) | - | -
コルビュジェ再考   −メートル法は天体時代の始まり−
今日、日本では最大の天体ショー『日食』が観測された。古代から皆既日食ほど人々の心理に与える天体現象はないであろう。フランス革命前夜の1787年には、パリで2回の日食が観測されている。

上野の西洋美術館をきっかけにしてコルビュジェの『モデュロール(黄金尺)』を再読する。

     



学生時代、神田の古本屋で見つけたものだ。美術出版社、昭和28年(1953年)発行、翻訳者:吉阪隆正とある。15cmx15cmの正方形の本で不思議な形の本だ。その表紙にはコルビュジェが書いたモデュロールの絵がある。

その第一部、『研究への雰囲気 環境 事情と端緒』に、「フランス革命は尺寸とのろい計算法を脱ぎ捨てた。」とある。

それで改めて『メートル法』を調べてみる。すると、18世紀末のフランス革命後の1791年べロール国民議会議員の提案で、地球の北極点から赤道までの距離の1000万分の1としてメートルが定義され、長さの単位[メートル]が決定され、これにより地球の円周が4万キロメートルになるように定義されたとある。尺寸法が人体の部位、例えば指、腕、足の長さを基準とした寸法単位に対して、メートルは地球の大きさから割り出された抽象的な数学的概念である。人間の単位を超えてしまった天文学的な寸法単位なのである。
それで、実際にフランスのベルギーとの国境に近いフランスの港町ダンケルクからバルセロナまでの距離を三角測量で測って決めたらしい。バルセロナがメートル法の基点になっていたのだ!

両方の都市の経度、緯度を調べてみる。
ダンケルク 東経2°36分  北緯 51°04分
(パリ)  東経2°21分  北緯 48°51分
バルセロナ 東経2°13分  北緯 41°22分
と出た。
ダンケルク=パリ=バルセロナは東経2°上の経線上、子午線上にあることが分かった。ダンケルク−バルセロナの緯度の差は10°であるから、10,000,000メートル10°/90°で1,111,111.…mで1,111.…kmとなる。 不思議なことに1がズーと続く。現在の子午線の基点は1884年万国子午線会議により、ロンドンの「旧王立グリニッジ天文台」を基点に定めたとあるので、当時の子午線の基点は、パリ天文台の軸線上にあったものと考えられる。この軸線は、ダビンチコードで有名になったローズラインで、ルーブル美術館のガラスのピラミッドの頂点と通っているのも偶然の一致なのであろうか?

また、現在フランス最北端の都市であるダンケルクは、1520年にカルロス1世、兼神聖ローマ皇帝カール5世 がフランドル伯を継承し、ルネッサンス期はスペインが統治していた所である。

ダンケルク−パリ−バルセロナ−ローズライン、思わぬところから軌跡=規準線が引けた。

フランス革命以降、世界は人間中心から地球、天体へと意識は広がって行く。当時はパリの建築家ブーレーの「ニュートン記念堂」(1784年)



やルドゥーの地球を中心に惑星群を描きだした「ショーの町の墓地案」(1804年)



など天体を意識した不思議で幻想的なプロジェクトが発表された時期で、『天文科学の為の建築』を創ることが求められたように思われる。

その過程で今当たり前に使っている十進法の計算、メートル法が実はフランス革命により決められたというのは、このコルビュジェの『モデュロール』を昨日再読するまでは気が付かなかったのである。

やはり、コルビュジェは偉大な近代建築家であることを再認識させられる。
この巨匠の元で学んだ前川国男、坂倉準三、吉阪隆正は日本を代表する建築家となり、近代日本建築、いわゆる『日本モダニスム建築』により、日本において建築を建築芸術にまで高めようと努力した功労者たちである。

よって、コルビュジェによる上野の西洋美術館は十分にユネスコの世界文化遺産に登録されるに値するものであると私は考える。



# やはり推論通り、最初の子午線は1634年パリの天文台が出来た時に決められたようで、現在の天文台内にはそれを記念した子午線が引かれているようである。それをデザインしたのがコルビュジェの協働者であったジャン・プルーヴェにより1948〜1951年のデザインによるものだ。
調べてみると日本でもプルーヴェの展覧会が5年前に行われていた。、パリのポンピドーセンターで、フォスター,ロジャース、ピアノを当選案として選んだ審査委員長で、現在のスター建築家たちに絶大なる影響を及ぼした『職人』建築家であることが分かった。

すべてパリの子午線(ローズライン、ロスリン)がコルビュジェを基点にして現在の建築に繋がっている!

新たなダヴィンチ・コードが発見できた。
| U1 | コルビュジェ | 17:56 | comments(0) | trackbacks(0) | -
上野のお山の世界文化遺産(1) −コルビュジェの西洋美術館−
先日6月27日、スペインのセビリアでユネスコの世界文化遺産を決める会議があったが、今回は惜しくも近代建築の巨匠コルビュジェの作品群が選ばれなかった。選ばれていれば、東京、上野のお山にある西洋美術館もユネスコ認定世界遺産が誕生していたのにと思うと残念であった。でも、引き続き審査をするということになったので、まだまだ可能性はある。次の審査に期待しよう!



この春、上野のお山の花見がてら西洋美術館と上野文化会館を見に行くのが目的であった。もう30年以上前になるが、建築学生当時、宮内康さんを囲んでの『同時代建築研究会』の花見を懐かしく思い出す。



日本にいた時はこれらの名建築を普通に見過ごしてきたが、今回はコルビュジェの日本に於ける唯一の建築作品をスペインから見に来たぞという意気込みで訪れた。上野の桜に誘われたくさんの人が西洋美術館を訪れ、館内に入るのに一時間近くも列に並んだ。ルーブル美術館から絵画が来ていて、その中には有名なデカルトの長髪で髭を生やした肖像画が含まれていた。彼はフランスのイエスズ会の学校ラフレシーヌ学院で教育を受ける。その後、17世紀初頭ルネッサンス後期のオランダに住み、「私は考える、故に私はある。(コギト・エルゴ・スム)」の『方法序説』の哲学を確立する。ヴィオレ・ル・デュクはこのデカルトの『方法の理論』を建築論に取り入れ、深く建築考古学的考察を繰り返し、彼の19世紀中頃『建築講話』に結実している。それを20世期になり現代風にインタープレットしたのが、コルビュジェの近代建築論『モデュロール』ではないかと私は考える。この『モデュロール』はダビンチ・コードでも話題なった『黄金比律』から導き出されたもので、この上野西洋美術館も、その黄金比律によってプラン、ファサードのプロポーションが決められているのである。デカルト=>デュク=>コルビュジェという軌跡で近代建築の幾何学に基づく理論が確立されたように思える。










| U1 | コルビュジェ | 00:23 | comments(0) | - | -
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