バルセロナ建築漫遊記

バルセロナからの気ままな発信です。
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湖水地方のラスキンの家とゴシックリバイバル運動

先週の日曜日には6匹のダルメシアンの子犬達は2ヶ月となり、無事にもらい手の所へ旅立った。

一番気に入っていた茶ダルの『桂』はドイツの建築家の所へもらわれていった。
磯崎氏のサインの入った桂離宮の本で『桂』のいわれとブルーノ・タウトの説明をしたらこの名前を大変気に入ってくれて、散々迷った挙句にやはり『KATSURA』に落ち着いたとのこと。
ダルは建築家同士の国際文化交流にも一役買っている。

息子のレスターの大学卒業式に出席したついでに久しぶりにイギリスの建築を見て回ったが、さすがにモダン建築発祥の地だけあった見ごたえのあるものが多い。

98年のイギリス旅行の湖水地方のウィンデメア(Windermere)では、ピーターラビットの里で有名なビアトリス・ポターの家を訪ね、この風光明媚な湖水地方が1895年にナショナル・トラスト運動の中心地になったことを知ることができた。

そして、たまたま湖の岸を走っている時に見つけたのがこの瀟洒な白いコテージである。
何とそれは当時(19世紀中頃)イギリス近代社会芸術文化運動の重鎮、ラスキンの家であった。
この湖水地方がいかに文化的水準が高かったことをうかがわせる。

車の事故が偶然にも私をラスキンに引き合わせてくれたのである。



ラスキンはこの美しい湖の眺めの良い場所に立っていたカントリーハウスを修復し、改築をして彼好みの住居にしていたらしい。そして1900年にこの家で亡くなった。ここを芸術家、批評家、思想家達が集まり拠点にして、ラファエル前派、アーツアンドクラフツ、ゴシックリバイバル、ナショナルトラスト運動のイギリス社会芸術思想を支えたとのことである。インドの独立の父、ガンジーも訪れたという記録がある。
近代社会芸術運動の発信地だったのである。

オックスフォード大学の教授でもあったラスキンは1855−9年にオックスフォード博物館の設立に関わり、ピュージン風のゴシックスタイル建築のディーン(Deane)とウッドワード(Woodward)の案が選ばれた。ウエストミンスター寺院のプランを参考に石積みのゴシックスタイルで、、開口部は尖頭アーチでアーチ部分はビザンチン、イスラム風で赤、白の縞状に積んである。クロイスター中庭回廊を建物中央部にとり、そこを当時の建築新素材、鉄の柱と梁、ガラス屋根で覆った大空間とし、博物館の展示スペースとする。柱頭にもアカンサスの葉のような様々な植物的な鉄製の装飾が施されている。柱頭からは尖頭アーチ曲線の梁が延び天上部で結ばれている。鉄という工業的な素材を装飾でカモフラージュして使っているようである。
中世の職人が手がけたようで手工業的である。

装飾細部にわたってラスキンの好みがこの建築ににじみ出ているように思える。
ガラス、鉄という新しい建築素材を使い、それをラスキンのゴシック好みに細部まで引き寄せていて、新しい建築はゴシックリバイバルとアーツ・アンド・クラフツは一体で進めて行く方向性を付けたと思われる。









このラスキンのイギリス近代社会芸術思想が、日本では明治期(1877)に東京帝大の造家(建築)学科に赴任したイギリス人建築家コンドルによって辰野金吾、伊東忠太へと繋がり、彼の建築進化論へと発展して行ったように思えてきた。
コンドルの師はバージェス(W.Burges)というラスキン親派のゴシック・リバイバリストの建築家で、ロンドンに事務所を構えていた。、辰野金吾も其事務所に留学(1880−83)していたという。其の時に日本の建築の事を尋ねられ、辰野は何も答えられなかったという事が有名な逸話として伝わっている。それが、伊東忠太に『美術建築』を研究させる契機になった事を『建築哲学』の自序に書かれている。

本文の中にも「ジョン、ラスキン」先生の彼の有名なる「セブン、ランプス」(建築の七燈)とあるのでかなり読み込んでいたように思える。

日本の明治期の建築はアーツ・アンド・クラフツとゴシック・リバイバルのラスキンの思想のイギリス正統のモダン建築の流れをくんでいたことがわかった。


| u1arc | 建築史 | 19:42 | comments(0) | trackbacks(0) | -









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