2011.03.01 Tuesday
カタルーニャのシンボルCuatro Columnas =4本のイオニア式巨大円柱の復活
昨日、プッチ・カダファルク(Josep puig i cadafalch1867-1956)による4本のイオニア式巨大円柱 =Cuatro Columnasが復活したのを記念し、Masカタルーニャ州大統領とHerauバルセロナ市長によるセレモニーが盛大に行われた。
昨年末のブログにも書いたが、1929年、モンジュイックで行われたバルセロナ2回目の万博の直前に当時のスペインの軍事独裁政権プリモ・デ・リベラによってカタラン色が強いと取り壊されたものだ。 その後のスペインは内戦状態になり、1937年共和国政府の最後の首都バルセロナでフランコ将軍率いる反乱軍に占領され、カタルーニャにとって暗黒のフランコ独裁政権時代となる。 この年にピカソは、祖国の為にパリで開かれた万博のスペイン共和国政府バビリオンに、あの『ゲルニカ』を描いたのである。パビリオンはコルビュジェの一番弟子でバルセロナ出身の建築家セルトによるものだ。 その次の年の1938年には市民戦争に参戦したジョージ・オーウェルが『カタロニア賛歌』を出版する。そのバルセロナでの経験が彼に『1984』を書かせ、村上春樹の『1Q84』へと繋がっていく。 近代の芸術・文化にも強い影響を与えている歴史的事件だったのである。 再建築をめぐっては、余りにもシンボリックなのでインパクトが強く、現在の景観にそぐわないとかいろいろ賛否がありここまで来るには紆余曲折があったということを、この計画を推進したサルバドール・タラゴから聞いた。 実際建っていた所は、現在の位置ではなく、Font de la Magica(マジック大噴水)を挟んだ向こう側だったのであるが、バルセロナ市役所は観光名物の噴水ショウの邪魔になるから、この写真の左のミースパビリオンの前の広場にするとか転々と場所を変え邪魔者扱いにされていたのが、カタルーニャ州政府により何とかもとあった所に近いこの場所に落ち着いたそうである。 スペイン広場にあるジュジョールによる噴水モニュメントからFIRAバルセロナ見本市会場、4columnas,カタルーニャ美術館MNACを結ぶ軸線 カダファルクによると4本の円柱の位置は、ジュジョールによるスペイン広場にあるモニュメントとカタルーニャ美術館を結ぶ軸線のちょうど中心にくるように計画したそうである。カタルーニャの精神を表す動かしがたい最も重要なイコンであったのである。その重要性を政治家に説いてようやく受け入れてもらえたということである。 やはり、しっかりした建築的コンセプトは人を動かすのである。 また、それを理解し粘り強く説明し、人を納得させることも建築歴史家として重要であることを教わった。 当時の4 Columnasのオリジナル。大噴水の前に位置していた。 昨年、ユネスコの世界文化遺産に決まったCastellerによる4 Columnasのパフォーマンス。 人間ピラミッドによるカタルーニャのシンボル=4 Columnasが見事に決まった瞬間である。 カタルーニャ美術館MNACの前から4 Columnasを望むと左側に虹が現れ、カタルーニャの独裁政権からの自由と今のバルセロナの繁栄を祝っているようであった。 現在はカタルーニャ美術館=MNACとして再生されたスペインルネサンス様式の建築をプッチ・カダファルクのイオニア式巨大円柱=4Columnasで力強くささえている様 今年のカタルーニャの祭日、Diada(9月11日)にはここで盛大に行うとのバルセロナ市長の話があったが、ガウディ、ドメニク・モンタネールに並ぶ建築家の巨匠プッチ・カダファルクの計画したこの古建築的イコンが、独裁者から勝ち得た自由と民主主義を愛するカタラン人の精神的シンボル的支柱となるに違いない。 3大モデルニスモ建築家の果たした歴史的役割は、これからのバルセロナ市民の精神的支柱にもなりうるものであることを再認識した。 |