バルセロナ建築漫遊記

バルセロナからの気ままな発信です。
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『移民の街』Sabadellへ歴史的記念建造物の見学会
バルセロナも春のポカポカ陽気となり、SOS.Monumentsが計画したバルセロナ近郊の町、Sabadellへの歴史的建造物の見学会に参加した。

Sabadellは19世紀中頃、150年前のカタルーニャ産業革命期、繊維工場が建ち並びスペインのマンチェスターとも呼ばれるほどであった。
スペインの各地から仕事を求めたくさんの人々がやってきて、『移民の街』として発展してきた。
今は20万人が住んでいて、バルセロナのベッドタウンとしても発展してきている。
私の住むサンクガットからは隣町で20キロ程で近いのだけれど、工場の街特有のスプロール化し、雑然としたイメージだったので、なかなか今まで訪れる機会がなかったのである。

今回の見学会では、スペイン各地から移り住んできた人びと=『移民』たちの歴史的建築モニュメントを一日かけて訪ね歩き、中世都市からどのように近代都市を形成して行ったかを、地元Sabadellを愛する郷土史家による熱のこもったカタラン語の説明で、『移民の街』の生活までより深く知ることができた。

カタルーニャ近代にとって、バルセロナが陽の商業都市とすると、Sabadellは陰の工業都市としてバックでしっかり支えてきたことが実感できた。



Sabadellを流れるRipoll川縁に建つ繊維工場。高いレンガ造の煙突が景観的シンボルとなっている。

1.市民戦争でSadadellに難民として逃げてきた人々の洞窟住居
COVES DE SAN OLEGUER



カタラン語、スペイン語、英語、フランス語の4つの言語と当時、洞窟住居に住んでいた人々の写真付きの丁寧な案内板。

この洞窟住居は昔からあるものではなく、スペイン市民戦争後1940年当時、共和国政府軍としてフランコと戦い破れ、スペイン各地からカタルーニャのSabadellへ難民として逃げてきた人たちが自分達で造ったものだ。住む場所もなく、街の中心から外れた川辺に建つ繊維工場近くのこの斜面に穴を掘り、住み始めたとのことである。

グラナダのサクロモンテ
に代表される洞窟住居がスペイン各地にある。

市民戦争から難民として逃げてきた人々が、本能的に住む為に必要最小限度の『洞窟住居』を自分達の手で造り始めたのだろう。

究極のセルフビルドである。

30mぐらいの高さで日当たりの良い南斜面に3層にわたって掘られ、各住居テラスがこのようにある。各戸、洞窟は2〜3掘られ、1〜2の寝室+DK(ダイニング・キッチン)でテラスの部分にはバラック小屋が建てられ居間として使われていたそうである。
『洞窟』と『バラック』とが融合一体化しており、ここには住宅本来の大地と住居の密接な関係が見てとれる。

これこそエネルギーを必要最小限におさえたパッシブ・エコ住居の原型であるといえる。


この地区には1946年当時119戸あり集落を形成していたが、フランコ独裁政権下で町に住む近代市民からは、貧民の住むスラム地区として差別を受けていたようである。
そして1955年には82戸、500人が生活していたが、その2年後の1957年には市により退去命令が出て閉鎖され、そのまま放って置かれ忘れ、町のゴミ捨て場のような状態であったとのことである。

それが最近になって市の歴史的文化財となり、遊歩道を兼ねた歴史文化的景観地区としてこのように整備され生まれ変った。



この川に流れ込む切れ込んだ沢に掘られたたくさんの洞窟住居群跡。



それぞれの洞窟を覆う鉄格子で中に入れないようにしてある。
ちゃんと景観的にデザインしてあり、アート作品のインスタレーションの様。





洞窟内部。川砂利の混じったもろそうな土。
川に流れ込んだ土砂が固まったもので、簡単に掘れるがもろい。
落盤事故が耐えず、何人もの子供たちが犠牲になったという。

当時の移民たちの、嘆きの歌が聞こえてきそうな洞窟住居群跡であった。


2.この建物は街の中心市街地にあるモデルニスモ建築の洗濯場。
ELS SAFAREIGS DEL CARRER DE LA FONTNOVA

カタルーニャモデルニスモ期1892年に計画され、1960年代まで使われていたが、その後、各住居に水道が整備されるようになると、この建物の役割は終わりこのように廃屋と化した。




市民生活にとって、水がいかに重要であったかを示すものである。
蛇口を捻ればたくさんの水が出てくる市民生活ができるようになったのは、つい最近のことなのであることを実感する。
それをSabadellの近代市民の歴史文化モニュメントとして1997年に修復された。

オリジナルでは扉・ガラリの部分は木サッシであったが、再生されたものは鉄製に変更している。
コストによる所が大きいと思われるが、あえて復元にはこだわらずスッキリとした合理的でモダンなデザインとなった。





近代の泉=水道としてシンプルなデザインで祠のように祀ってある。
上部にはモデルニスモの装飾タイルを貼り、素朴ではあるがシンメトリーで気品のあるデザインになっている。

質素に慎ましく生きる市民ができる最大の感謝の印のようである。



川での洗濯と街の中の新しくできた洗濯場。
当時使われていた洗濯桶と板。石鹸、ブラシ、たたき板のようなものもある。



このテラゾの洗濯台の周りに立ち、Sabadellの女達は、毎日ゴシゴシと洗濯に励んだそうである。



壁には元窓であった所がレンガで塞がれているのが分かる。
この窓から顔を出し、洗濯する女達の姿を楽しげに眺める男達がいたという市博物館員の女性の説明があった。
だから塞がれたそうな。

古い壁一つからも身近な庶民の歴史が見えてくる。
歴史的建造物の保存は自分達の街を知る上でも重要で、この街に住む人にとっては記憶と密接に結びついている。


3.街の中心近くの旧市街、地下に眠っていた建築装飾用テラコッタ・セラミックの窯跡
L'OBRADOR DE CERAMICA DE L'ESCAIOLA



絨毯屋の店内奥の地下にあった18世紀初めの陶器の窯跡を発掘し、アートギャラリーとして再生した。店の主人がその由来を誇らしく詳しく説明した。

2cmの薄いレンガを積み上げて造った、重厚な天井のトンネルボールト。





奥の窯跡。ここでは比較的低温度のでできる建築装飾用のテラコッタ・セラミックを造っていた。


4.カテドラル近くにある1273−1912年、600年以上にわたるSadadellの名士の邸宅
La Casa Duran del Pedregar

15世紀のカタルーニャの大農家=マシアをバロック様式の格式ある邸宅に改築してある。
正面玄関部。半円形アーチの石組みの上部を切り取るように、ベランダと2つの背の高い石積の開口部をシンメトリーに配していることによって知ることができる。
600年を超える歴史の中で、この大農家家はスペインルネサンス、バロック様式と格式のある邸宅へと増改築を重ねて行き現在の姿となった。
2000年に市が130万ユーロをかけ、博物館として保存・再生した。





近くの農園で収穫したブドウを醸造しワイン樽に入れ貯蔵した。
カタルーニャのシトー派のロマネスク修道院の如く重厚な空間である。



建物2階奥の2つの噴水のあるパティオへ通じる出入り口。
スペインルネサンス期、IHS 1578のプレートが付いている。



レリ−フ、絵でカラフルに装飾された天井が高いセレモニー用のホール。



丸い部分は釜の跡で、手前の穴からマキをくめて火を起こし銅製の大鍋をかけ湯を沸かした所。
16世紀この部屋で石鹸を作っていた。
考古学的に発掘調査され、見学用に橋を渡し見れるようになっている。



この場所は中世都市の内城壁に当たり、堀があり水がはっていった所。
壁が折り曲がっているのもその城壁をそのまま建物の壁とした為このようになった。



斜めに入った大屋根を支える大梁。
壁に付いているボツボツはツバメがこの中に入ってくるためのセラミックの穴。
スペインでも虫を取ってくれるツバメは家に幸運を運ぶ鳥として歓迎されていたらしい。

5.旧市街のすぐ外側に広がる新市街に建つ2つのモデルニスモ建築
Despatx Lluch (1908年) Juli Batllevell(1864-1928)



150年前の産業革命期、中世城郭都市の外城を壊し、その外側に道路幅の広い新市街地街区を形成した。バルセロナだけがセルダによるスッキリ整然とした碁盤の目状の格子状街区になったが、マドリッドをはじめとして、他の都市は中世都市の旧市街地を中心にWeb状にスブロール化したゴチャゴチャした新市街の街並になっている。

上のSabadellの名士の邸宅のすぐ近くモデルニスモの建物があった。
Despatx Lluch 1908年 Juli Batllevell(1864-1928)
まるでドメネク・モンタネールとlガウディの初期の建築を合体させた様。

#さっそく家に帰って調べてみると,やはりこの建築家はバルセロナの建築学校ではドメネク・モンタネールに習い、カサ カルベではガウディの下で働いたという記述があった。

#グエル公園で唯一売れた敷地に建っている邸宅を、ガウディの弟子ベレンゲールと共に1903−1906年に完成させている。施主は地元Sabadellの名士で弁護士のMarti Trias。
この時期にガウディは自分の住む家は弟子のベレンゲールに造らせ、現在ガウディ博物館(Casa Museu Gaudi)として公開している。
ガウディの住んでいた家が同時に造られていたことが分かる。
そしてガウディは、1906年ー1925年まで死ぬ間際まで一人でここに住み、彼の建築にうちこむ日々を送った。

グエル公園はイギリス、ハワードの田園都市構想を新興のカタルーニャのブルジョア(burgusia Catalan)モデル住宅地として1900−1914年の間に実現化されたが、実際に売れたのはMarti Trias の一つだけで、ガウディは設計料の代わりにもらったと思うので、結果的に本当に自分の庭として創ったようなものになったのである。
このグエル公園を計画し、彼の元に慕って集まって来る若い建築家と、現場で働く職人と共にプロモーターとしてしても、自分の目指す建築を実現化しながら、14年の歳月をかけ創り上げていったのである。この間自宅は彼の現場事務所として使われていたように思える。

カタルーニャの近代化は、この地に住む実業家グエル伯爵、Sabadellの弁護士トゥリアス、建築家ガウディの三位一体でイギリス、ハワード、オーウェンの社会思想の強い影響を受け、発展させて行ったことが分かった。

そして、第一次世界大戦が始まり、彼のパトロンであったグエルさんが亡くなった後は、サグラダファミリアの教会に彼の考える『理想の建築の姿』を追い求め、建築家としてだけでなく建設継続の為の募金活動をしながら、自ら全てをサグラダファミリアの建設の為に捧げたように思える。

Colegio Religioso de la Sagrada Familia
サグラダ・ファミリア学校
(1909年)

この建物の向かいにはガウディのパラボラ曲線のレンガ積の学校があった。
このパラボラ曲線に見覚えがある。
そうだ!これはガウディのテレジア学院のものだ。
名前を見ると何とColegio Religioso de la Sagrada Familia(サグラダ・ファミリア学校)とある。





レンガでこれだけのパラボラ曲線を造れるのは只者ではない。

#1888年にガウディが計画したテレジア学院が資金不足の為に建設中止となった。その後ガウディはテレジア学院の建設からは手を引いたが、それを20年後の1908年に仕上げたのがこの建築家であったことが分かった。この建物はその次の年の1909年建てられた。
なのでレンガ造のパラボラ曲線の名人であったのである。

その名はGabriel Borrell(1886−1937)

大理石などの高級建築資材を使わずに、パラボラ曲線状に積み上げたレンがと蛇のようにくねくね曲がった装飾した鉄扉、塀、窓格子で合理的にローコストで創られている。



#テレジア学院の庭に展示されているパラボラ曲線の鉄の型枠。
この型枠を使い、ガウディ建築のパラボラ曲線のレンガを積んで行った。

やはり、本物は一目見れば分かる。

テレジア学院の作品が、Sabadellのモデルニスモ建築家から、ガウディ初期のパラボラ曲線の秘密を知ることができたのは今回の見学会最大の収穫であった。

カタルーニャモデルニスモ期、良い建築を創る者同士はどこかでみんな繋がっていて、ガウディ、ドメネク、カダファルクとモデルニスモの建築の巨匠達が、カタルーニャの近代都市へ与えた社会的影響は計り知れない。

バルセロナ近郊の中世都市からの600年を超える『移民の街』SabadellをSOS.MONUMENTSの仲間たちと共に、その石・レンガ造りの建物が、社会変動の激しい各エポックごとに再生=ルネサンスさせながら、重層化してきた都市のダイナミックな歴史を共有することができた。

このダイナミックな都市のルネサンスの方法を今後、現状復旧に囚われることなく、10年20年後の先を見据えた長いスパンで考えた震災後の『Re-日本』の街づくりの為に、是非生かしてもらいたいものだ。

またこれからの日本は、我欲を超え、次の未来の世代に繋いで行こうという東北出身の宮沢賢治の考え方が必要となってくるように思える。

最後まで地震にも津波にも原発事故にも負けない丈夫な体でいたい。

| u1arc | 建築文化遺産 | 20:38 | comments(0) | trackbacks(0) | -









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