バルセロナ建築漫遊記・未来へ

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ピレネー山奥の教会(Jaca)にも聖杯=Sant Caliz発見!


この夏の三つ目の出来事は、ピレネーロマネスク教会を巡る2000キロの旅で行ったハカ(Jaca)のサン・フアン・デ・ラ・ペニャ修道院跡の『聖杯』発見である。



ハングオーバーした大岩壁にすっぽりと収まるように教会は造られている。
22年前来た時には、岩陰に投げ込み寺の様に建っている不思議なロマネスク教会だなと思っていた。
4年前に聖杯の辿ってきた道を調べていくと1071〜1399年までの間はここに隠されていたことが分かったので、今回、是非立ち寄ってみたいと思っていたのである。

1071年という年はアラゴン王サンチョ・ラミネスが修道院の新教会の建設に着手すると同時にフランスからクリュニー会派の修道士達を招いて改革を委ねていた時期とある。
現在の建物はほぼその時に改築されたものと考えてよいと思われる。

 

下の写真はこの建物一階部分の内部奥の岩壁側にある祭壇部分。
馬蹄形開口部のスペインでアラブ化したモサラベ様式と言われているが、よく見ると西ゴート伝統のローマ、ビザンチン建築に近いような気がする。
半円ボールトの両端を柱で支えていて柱が少し内側に入り込んでいる分、半円より状に少しすぼまった曲線になっている過半円状である。イスラム建築のボールトは過半円状ではなく、もっと縦長の曲線でいわゆる馬蹄形である。
なので、この部分の建築は西ゴート建築の特徴である3位一体以前のアリウス派の初期キリスト建築であるといえる。
一般的にはプレ=前期ロマネスクと言われている。

西ゴート王国はローマ帝国崩壊後の民族大移動で、北のゲルマン民族が5世紀から南フランスからピレネー山脈を超え、現在のスペインのほぼ全域を領土に持ち、イスラム勢力に侵略される8世紀まで300年以上続いた巨大なキリスト教王国であった。
首都はピレネーの北に位置するフランスのトゥールーズであったが、南フランスのナルボンヌ、アリウス派からアタナシウス派のローマカトリックに改宗したレカルデロ1世の時(586−601)にはスペイン中央部のトレドに遷都している。
300年にわたりピレネーを又にかけ、現在のスペインと南フランスに存在していたのであるが、その文化に関してはその後、ビザンティン、ローマカトリック、イスラム、によって侵略、破壊され失われてしまっていて謎の部分が多い。



開口部の過半円ボールト部分は切石で綺麗に積み上げられている。
ボールト部分のうけの部分はしっかりと大き目の柱頭で受けて、円柱や付柱でしっかり支えている。



2階部分は綺麗に半円トンネルボールト状に積まれた石積み天井である。
正面ファサード上部の開口部はやはり3つの半円ボールト窓が穿たれている。
これは325年ニカイヤ第一回公会議でアリウス派は異端とされ、Trinidad=三位一体のカトリック根本原理が承認された、その建築象徴化であると思われる。
ここで西ゴート建築の2つの小さな窓で象徴化されているアリウスキリスト建築は、その上に3つの大きな窓で象徴化された父と子と精霊の三位一体原理にとって変えられたのである。



2階にあるロマネスク様式の祭壇。
祭壇中央に『聖杯』を発見!!!

その時に重要な役割を果たしたのが、ローマで殉教したロレンソ=ローレンスの元から生れ故郷のサラゴサに送られてきたというこの『聖杯』ではなかったかと思われる。

サンチャゴの墓は、813年にイベリア半島の北西の果で奇跡的に発見されたという歴史的記述がある。718年にペラヨがコバドンガでイスラム勢力勝利し、アストリア王国を建設したほぼ100年後に当たる。
その後、ローマカトリック教会において最高のキリストの聖遺物で、ピレネー山脈のほほ中心に位置する、ここハカを対イスラム、レコンキスタへの戦略『サンチャゴへの道』作戦の拠点としたのではないだろうか?

この時期ヴェズレーでは、マグラダのマリアの骨がマドレーヌ寺院の聖遺物となり、フランス側の『サンチャゴの道』の起点となっている。
また、1164年にはケルンの大聖堂には赤顎鬚王Frederic1世がミラノカテドラルから東方の三賢王=Reyes Magosの聖棺を略奪して持ち込まれた。
当時、聖十字架、モーゼの鞭の最も重要とされた3聖遺物の一つである。

ハカのピレネーを越えたフランス側にはかつて西ゴート王国の首都トロサ(トゥールーズ)があり、この時期、巡礼教会としてサン・セルナン教会がロマネスク様式に改築されている。

フランス北部のブルゴーニュのウェズレー−>トゥールーズ−>ハカが線で結ばれ『サンチャゴへの道』として整備され、ローマカトリックによるレコンキスタ戦略体制が出来上がって行ったようだ。

#先程ヴィオレ・ル・デュクの年譜を確認すると偶然にもこれと同じ線が引けた!
 1833年デュクはこの年20歳の時に結婚相手エリザベトに出会い、5ヶ月にわたりフランス西南部を大旅行し、ピレネーの美しい風景を描いた作品は翌年サロンで入賞した。画家として認められたので彼女と結婚した。デュクにとってピレネーの山は運命を決めた場所であり、最初の修復の仕事は1840年ヴェズレーのラ・マドレーヌ教会で、晩年1870年トゥールーズのサン・セルナン教会の修復工事を完成させている。



これが今回あった『聖杯』の拡大写真。
バレンシア大聖堂のレプリカを最近置いたらしい。
もちろん、キリストが最後の晩餐で使ったものはパレスチナガラス製であったらしく、聖遺物して崇拝されるようになってから、後の時代にグラスを高価な黒メノウで覆い、10世紀には台座が宝石、真珠で装飾され、12〜13世紀には取っ手が付けられ現在のゴージャスなカップになったとのことである。
最近のイタリア人の考古学者による研究では、ローマのサン・ロレンソの墓から聖杯が見つかり、その内の一つを大グレゴリウスローマ法王(586−601)がアリウス派からアタナシウス(三位一体)派に改宗したレカレド西ゴート王へ送ったという記述があるとのことで、聖遺物によるローマカトリック教会の権威を高めることがこの時期盛んに行われていて、それがこの聖杯という説も出てきている。



ロマネスク回廊から礼拝堂部分を臨む。
左、過半円アーチの10世紀西ゴート様式の入口。上部中ほど、半円アーチ窓の11世紀ロマネスク様式、右端は尖頭アーチの15世紀、火炎式ゴシック様式のサン・ヴィクトリアの礼拝堂。
この部分だけで3つの建築様式が500年の長い歴史を経て現在に存在している。

文献・書物には残っていなくても、現在残っている建築の姿を見て、19世紀デュクが行った建築学的方法で分析し、当時の社会的状況を合わせて考え長いヨーロッパの歴史に思いを馳せることは楽しみの一つとなっている。

やはり建築は文化の生み出す産物であり、長い歴史の中で生き抜いて、現在に存在する文化遺産であることを実感する。

この激動の21世紀において、長い歴史のスパンで考え、過去の建築論、建築史を再研究&構築する建築史の方法の重要性が増してきているように思う。



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