バルセロナ建築漫遊記

バルセロナからの気ままな発信です。
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ウィーンバロック建築はバルセロナに由来する!・?・!

今朝起きてカーテンを開けてみると、前の家の屋根には薄っすらと雪が積もっている。
このところのヨーロッパの寒波の襲来でバルセロナにも雪が降るのである。

昨日の朝の犬との散歩では、いつも連れて行っている谷がイノシシ狩の為に一般立入り禁止となっていたので、久しぶりにダム湖を抜け山の稜線に出るコースを行く。
バルセロナの街の背後にあるティビダボ山の向こうに広がるコイセローラの山は、−7°まで冷え込んで、森の奥にあるダム湖はこのように凍っていた。
 


13歳の誕生日を迎えたばかりのベル。さすがに車に飛び乗ることができなくなってきたが、まだ森を一緒に散歩できる。13年間、毎日のように共にこの森を過ごした愛犬だ。


先日(1月22日)の日曜日に毎年恒例のサン アントニオのバレードが行われた。
いつものように愛犬たちとテラスに出てサン アントニオの祝福を受ける。


かぼちゃをたくさん積んだ馬車に、うまい具合にバランスを取っている犬が可愛かったので、思わずシャッターを切る。


マカロニウエスタンの悪役っぼいサングラスをかけたオジサン3人組が登場。


彼等が狙っていたのは、アンダルーシアの乗馬服と帽子と水玉のフラメンコ衣装でかっこよく決めた2人娘か?

マカロニウエスタンというのはジョン・ウエインに代表される西部劇ウエスタンにたいして、フランコ・ネロの『夕陽のガンマン』などに付けられたもので、イタリアン=マカロニとなったのであるが、実際はスペインのアンダールシア近くのムルシアに映画村を作り、数々の作品を撮っていたらしい。白い壁造りの家々に荒涼とした風景=荒野が広がっていた。中学生時代、あのニヒルなフランコ・ネロの早撃ちの銃捌きに憧れ、学園祭でその風景の中での決闘シーンを大きな絵に描いたことを思い出す。『ミツバチのささやき』『エル スール』のスペイン人名監督ビクトル エリセも若い時にこの映画村で学んだらしい。

こちらで放送されているBSテレビの旅番組で、宇津井健が一番美しい馬として惚れた『アンダルース』種をスペインの南の小さな村に訪ねるドキュメンタリーをやっていた。我々の世代では山口百恵のお父さんであり、時代劇の馬乗りの名手の俳優としても有名だ。馬と言えば、サラブレットかアラブだけしか知らなかったが、『アンダルース』種が一番美しいというのが驚きで、馬種にしても犬種にしても奥が深い。

馬好きの宇津井健さんが、80歳の誕生日を迎え、念願の『アンダルース』に乗り、ゆったりと相馬馬子歌を歌いながらアンダルシアの野山を行く姿が格好良かった。

そう言えば、バルセロナオリンピックの開会式では優雅な馬術が披露されたし、フラメンコダンサー、クリスチーナ オヨスが颯爽と馬に乗って駆け抜けて行った。また、オーストリアのウイーンにはスペイン宮廷式馬術学校の宮殿がある。

この馬の『アンダルース』種について調べていくと,さらに興味深い歴史的事実が分かってきた。
4000年前からのアラビア半島原産の馬種が、アンダルシア地方でローマ時代からベンハーのシーンで有名な競技場を走る軍用馬として賞賛されていたらしい。それが、8世紀イスラム勢力がイベリア半島に侵略してコルドバのアラブの王により保護され大切に育てられ、1492年にフェルナンド、イザベルカトリック両王に最後グラナダ征服されレコンキスタが終了すると、今度はスペイン王室の為の馬となりカルロス1世&カール5世の特別の馬へと繁殖される。息子のフェリッペ2世はこの『アンダルース』種の為の王立の種馬飼育場をコルドバに設立する。軍馬としての強さだけでなく、スペイン王室としての優雅さと華麗さを供えた馬として姿+形+身のこなし(独特のステップ-Paso espan~ol, Passage, Troteなど)として完成させたのである。
当時ヨーロッパ最大のスペイン王国で馬は兵器としても重要な国家軍事機密で、王室内で厳格に管理されていたことが分かる。

この伝統が、力強く華麗で美しい馬『アンダルース』を創り出したのだ。

それで、なんでウィーンバロック建築がバルセロナに由来しているのかというと、この前置きの長かった『アンダルース』馬種が関係しているのである。

1700年、スペインはカルロス2世が死去し世継が居なかった為、フランスのブルボン家からマドリッドの宮廷に入ったフィリップ5世とバルセロナのカール大公(後の神聖ローマ皇帝カール6世、オーストリアの女帝マリア・テレジアの父親である。)との間で1701〜14の間に継承戦争が起こる。
1708年にはバルセロナのサンタ マリア デル マールで婚礼を挙げ、カルロス3世としてスペイン王位継承を請求したが、フランス、イギリス、オランダ、オーストリアのパワーポリティクスが働き、神聖ローマ皇帝カール6世になることを条件に、スペイン国王の継承を諦めさせられる。今のシウダレラ公園あたりのバルセロナの城壁が破られ、マドリッドのフィリップ5世軍に占領されてしまう。

カタルーニャにとっての屈辱の日、11 de Septiembre=DIADAとなったのである。

カール6世がスペイン国王を諦める代わりの条件の一つとして、この『アンダルース』馬種をウィーンへ持ち込むことが入っていて、それが現在のウィーン冬の宮廷内にあるスペイン宮廷式馬術学校である。

その設計を任されたのが、宮廷建築家のエルラッハ親子(Johan&Josep Fischer von Erlach)であった。
父のヨハンは16歳の時にイタリアのローマへ行き、ベルニーニの下で建築と彫刻の修行をしている。
その後ナポリへ行き、スペイン総督の元で働きたいと考えていたが、1687年にオーストリアに戻り、パラーディオ風のヴィラ、ベルニーニ、ボロミーニのイタリアバロック風の当時流行していた建築スタイルの建築を設計をし、ついにはオーストリア ハクスブルク家宮廷建築家になる。

1721年にはパラディオに倣い、ハクスブルグ帝国建設のアイディアの元となった”A Plan of civil and Historical Architecture"を出版する。

代表作であるカールス教会はボロミーミ風の楕円ドーム建築で1716年から建設が始まり、1723年父のヨハンが亡くなって以降、息子のジョセプが1737年に完成させている。
この建築は初期ウィーンバロック建築の代表作となっている。

バルセロナ--->カール6世婚礼--->サンタ・マリア・デル・マール教会--->ウィーン冬の宮殿--->スペイン宮廷式馬術学校--->エルラッハ宮廷建築家親子--->ウィーン初期バロック建築家
となり、ウィーンバロックはバルセロナに由来すると言えるのではないだろうか。

25年前、バルセロナに来る前にウィーンへ行ったときの記憶によると、この教会の前には、オットー・ワグナーの鉄骨と大理石版で装飾的に組み立てられたセセッションのカールス プラッツ駅があり、近代の建築材料の鉄と白大理石を組み合わせ、装飾的で華麗な近代建築に感動したことが甦ってきた。
ここにオーストリアバロック−−−>ウィーンセセッションの建築史的流れが見て取れる。

これはスペインバロック−−−>バルセロナのモデルニスモ建築の建築史流れに共通する所があるのではないかと思う。

よって、
「ウィーンのセセッション建築とバルセロナのモデルニスモ建築により、この2つの街の装飾的で華麗な雰囲気には共通性がある。」という結論に至った。
 

| u1arc | バルセロナの街 | 17:10 | comments(0) | trackbacks(0) | -









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