バルセロナ建築漫遊記

バルセロナからの気ままな発信です。
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ピレネー噴火口の麓の街Olotにあるソラ・モラーレスの家=Casa Sola Morales



先日SOS Monumentsの仲間達とバルセロナから北へ100キロ程、ピレネーのフランス国境に近いOlotという街へ建築見学に行ってきた。
この見学会での一番の目的は、ドメニク・イ・モンタネールがモデルニスモ様式で改修(1913-1916)した、あのイグナシ、マヌエルを生み出したソラ・モラーレス家の中を見せてもらえることにあった。

この辺はイベリア半島では珍しく40もの噴火口がある火山地形になっている。東ピレネーフランス国境にも近いOlotの街は、その噴火口の麓に造られていることが上の地図でよくわかる。

1万年前には火山活動は停止しているが、1427年と1428年には大地震があり街は壊滅された。それでもすぐに復興し、右上の四角の点線で囲われた旧市街地と川を挟んで中央から左下にかけて20世紀初頭に新市街が形成された。
この新市街地は、キューバのハバナで一儲けをしたIndianos=インディアノス達によって造られた田園都市であったのだ。

日本でも最近、インディアノスとカタラン人に関する研究書が出版され知られるようになった。アフリカからキューバへ黒人奴隷を送り、砂糖とタバコを交換し、奴隷はアメリカ本土へ綿花栽培の労働者として白い綿花と交換されヨーロッパへ輸出され綿繊維工業が発展し、綿布をアフリカに輸出するという、この大西洋三角貿易がヨーロッパの産業革命を引き起こした基盤となっていたと言われている。

特にガウディのパトロンであったグエイ家もインディアノスの一人で奴隷貿易で儲け、カンタブリア地方出身で同じくインディアノスの富豪、コミ−リャス侯爵ロペス家と結婚し、バルセロナの名士にまで登りつめた。

ガウディは、グエイの依頼でにコロニア・グエイの綿工業都市、現在グエル公園になっている所には、新興ブルジョアのお金持ちの為の田園都市を計画している。

19世紀末の1899年、スペイン領であったキューバがアメリカとの戦争により領土を失い、インディアノスがスペイン本土に引き上げてくる。特にカタルーニャ出身者が多く、大金を持って故郷に戻ってきた。世界的にタバコ会社を経営していたマヌエル・マラグリダ(Manuel Malagrida)がプロモーターとなってイギリスの田園都市に倣い、Olotの新市街地を1916−1920に造成区画販売をした。

川を挟んで2つの街区があり、旧市街側は『スペイン広場』を中心に8本の放射状の街路樹大通り=アヴェニューが拡がっていて、コロン=コロンブス橋の向こうにはもう一つの街区の中心、『アメリカ広場』から同様に8本のアヴェニューが放射線状に拡がっている。

インディアノスの脳内イメージを、そのままここOlotの街に都市計画したかのようである。
しかし、ガウディのグエル公園同様、第一次世界大戦の影響で区画分譲地が売れずに最初の計画通りにはならず、スペインとアメリカの2つの街区とそれを結ぶコロン橋、中央広場から広がる8本のアヴェニューの主なインフラだけがなんとか実現されたようである。



インディアノスによる田園都市構想はユートピアに終わったが、それが現在のOlotの閑静な新市街を形成している。

その中でも特に際立っている住宅があった。それもそのはず、スペインのマッキントッシュと言われているジロナ出身の建築家、ラファエル・マソの作品である。
この建築Casa Masramon(1913-1914)はマソの代表的作品で、バルセロナ・モデルニスモ様式の後のノウセンティシスモ=新世紀主義といわれるものだ。マソ自身もウィーンに行っているように、ホフマン等のセセッション・スタイル=様式の影響が見られる。



2階開口部部分に使われている瀟洒な青色装飾タイルは、自身のタイル工場で焼かれたものである。




建物の曲面に合わせ唐門風になっている。



最近博物館として公開されているジロナの彼の自邸は、その繊細でモダンなデザインはマッキントッシュを彷彿とさせる素晴らしいものだ。



ジロナの有名な建物が彩色されたオニャール川風景。中央白く塗られた建築がマソの家で、現在マソ建築家博物館になっている。



マソ建築家博物館のプレート。モデルニスモ後のワインのカテドラル建築家セサール・マルティネイと同様ノウセンティスモ建築家とある。







この建築が今回お目当ての、ファサードがゴージャスでエレガントなソラ・モラーレスファミリーの家。

それもそのはず元侯爵家の邸宅で、1781年にイタリア人建築家、フランセスク・ブリーリによってバロック様式によって創られた宮廷式である。
それがドメニク・イ・モンタネールによって1913-1916に2軒あった建物を一つに纏め、そのファサードに装飾をたっぷりと施した彼のモデルニスモ様式で改築デザインされたものだ。
中央2つのイオニア式の柱に取り付いてベランダを支えている美女たちは、地元Olot出身の彫刻家Eusebi Arnauによるもので、世界遺産のバルセロナにあるカタルーニャ音楽堂の彫刻も彼によるものである。



柱頭にエレガントな渦巻き装飾のあるイオニア様式の女性的な柱+それに取り付く大理石の美人像+少し前に迫り出したなだらかな曲面のテラス+その曲面に合わせ鉄で創られた花と渦巻き装飾の手すりと下部にある鉄格子。

女性的なイオニア様式の柱をベースにしてものの見事にゴージャスでエレガントな建築ファサードをデザインし尽くしている。

この改築された建築は、ガウディのカサ バトリョ(casa Batllo)同様、ドメニク・イ・モンタネールのモデルニスモ建築の最高傑作の一つであると思う。




カテドラルを望むために主寝室に取り付けた歪んだ真珠=バロック風装飾のトリビューン見上げ。



ロココ・バロック宮廷風に絵ががれたゴージャスなサロン。



ピンクの布地でロマンチックにデコレーションされた寝室。



寝室入口アーチ頂点にはソラ・モラーレス家の金の紋章(左半分にソラ=太陽+右半分モラーレス=上部は一本の桑の木と下部には3本の横線が付いている。)




壁には家族のたくさんの肖像画と天蓋付きのベッド。



奥はカテドラルを望むために主寝室に取り付けた歪んだ真珠=楕円形バロック風のトリビューン。



階段室天上部にある格子状のトップライト。



最上階ロマネスク回廊風テラス。



屋根を支える列柱の見上げ。軒先裏は花模様のかわいらしいタイルが貼られている。



バロック風トリビューンの屋根見下ろし。黄色いウロコ状のセラミックの屋根瓦。



下の階のゴージャスな内装とは打って変わって、田舎屋の屋根裏の様な最上階物置スペース。階段室天井のガラスが張られているトップライト部分。



最上階軒裏見上げ。左がオリジナルの屋根、古い大梁に斜め材を入れを補強している。その上に小屋掛けして垂木を渡しスペイン丸瓦を載せた古民家の屋根構造。
右は最近改築知多と思われる4cm厚の薄いレンガをモルタルで繋げたもの。



奥の黒い壁はこの地方で取れる火山石を石灰モルタルで固めた外壁のオリジナル。
手前レンガの壁は間仕切り壁。上と下ではレンガの色、積み方が異なる。
したがオリジナルで上が後で修理した時のものであると推測される。

昨年のガウディの誕生日、6月25日に書いた『バルセロナの新興ブルジョワジーの豪邸建ち並ぶティビダボ山』では、

「それを救ったのが、74年フランコ死後再びカタルーニャは自治を取り戻し、GRUP Rの建築家たちが主体となり、本来のバルセロナブルジョワジーの活気 が出てきたところが大きいと思う。その建築家の中には、市の助役となり92年オリンピックをオルガナイズしたボイーガス、その前の段階でバルセロナ再建築 を実現していった都市計画家マニエル・ソラ・モラーレス・イ・ルビオの存在が大きい。
弟はあの建築家イグナシ・ソラ・モラーレス・イ・ルビオあ る。このルビオの姓から解るように、彼らも、ジョアン・ルビオを伯父さんに持つルビオファミリーなのである。2004年のバルセロナフォーラムではマニエ ル・ソラ・モラーレスの弟子のジョアン・ブスケッツによりディアゴナル大通りが地中海まで到達し、
1859年のセルダのエンサンチェプランが150年後にようやく完成している。

ルビオファミリーのバルセロナの建築と街への想いが、新興のバルセロナブルジョワーの新しい力と一体となって、市民戦争、独裁政権を乗り越えを発展させて行ったともいえるのではないかと思う。」

カタルーニャ近代、バルセロナの建築・都市計画に貢献したのが、このゴージャスでエレガントな邸宅に住んでいたOlot出身のSola・Moralesファミリーだったのである。

| u1arc | 建築文化遺産 | 12:55 | comments(0) | trackbacks(0) | -









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