バルセロナ建築漫遊記・未来へ

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カタルーニャのシトー派三姉妹 サンテス・クレウス修道院


このサンテス・クレウス修道院でエジプト三角形(3・4・5の直角三角形)のシスターズトライアングルは閉じられる。
シトー派三姉妹の中で一番最初、1157年に建設が始まった。丁度シトー派修道院発展の功労者ベルナールが死んだ1153年直後に当たる。ベルナールは第2回十字軍招集の宣言を出すほどの神聖ローマ帝国の実力者でもあり、テンプル騎士団と緊密な関係があったと言う。その時の騎士団長が当時カタルーニャ領であった南フランス、ナルボンヌ出身であったので、テンプル騎士団とカタルーニャの三姉妹はかなり深い関係があったと想像される。
アラゴン、カタルーニャからアラブ勢力の追い出しに成功したラモン・ベレンゲール4世バルセロナ伯爵が、シトー派修道院を建設する為のローマ皇帝の許可を得て、ポブレーも含むこの辺一帯の土地を買ったとされている。サンテス・クレウスのクレウスとはカタラン語で十字架を意味する。これは十字軍の十字でテンプル騎士団のシンボルでもある。まず最初に、サンテス・クレウス、その後ポブレーを建設している。シトー派修道院建設の為にフランスから修道士を呼び、20年も経たないうちに、バイボナ・デ・レス・モンチェスの女子修道院にナバーラからシトー派の尼僧を送った記述がある。その時期に既にエジプト三角形のシスターズトライアングルの礎ができたのである。シトー派はベネディクト派から1098年ロベール等によってフランスで創立されたとある。清貧を尊び、常に人里離れた川の近くの平地に防衛の為の高い外壁で囲い込まれた回廊のある独特な建築スタイルを持っている。この回廊のことをスペイン語でクラウストロというが、囲い込まれた独立した場所と言う意味のラテン語から来ている。修道院には礼拝堂の他に図書館、教室、会議室、食堂,ワイン倉庫があり、そこで修道士達の生活は、土地を開墾し農業や牧畜を営み、祈りのある毎日を送っていた。
シトー派の修道院で作られるワイン、ビールは美味しいことでも良く知られる。ポブレーの修道院でも20年ほど前からまたPinot Noir種のブドウを栽培し、ABADIA DE POBLETというラベルで昔から伝わるフランス風のワインを作り始めた。このワインもポブレー修道院が作り出した世界文化遺産の一つである。スペインワインにはない、上品で洗練された味がする。征服王ハイメ一世もこの味のワインを飲んでいたのだろうか。
話をサンテス・クレウスに戻そう。第一期工事は200年続き、1376年外壁工事終了とある。1270〜1285年この間工事中断とあるが、1276年に征服王ハイメ一世がバレンシアでレコンキスタ最中に死んだころと一致している。その跡を継いだペドロ三世アラゴン=カタルーニャ王の聖棺が教会祭壇前の柱の所に置かれている。その聖棺は私がサン・ジョルディ伝説のホワイトナイトではないかと想像していたロヘール・デ・ラウリアがはるばるエジプトから持って来た石のバスタブであると言われる。(上の写真左側にあるのだが、この写真には残念ながら写っていない。)下の写真は、そのペドロ三世が建設し住居にしていた王宮。教会の工事を中断し、自分の王宮を先行して造ったものと思われる。そして、このシスターズトライアングルが完成し、モンブランクで悪いドラゴンを退治したというサン・ジョルディ伝説が生まれたのは15世紀のカタルーニャ・ゴシックの黄金期である。歴代の王様たちが眠るこの地を伝説化することによって『聖なる場所』とした意図が読み取れる。そこには『新聖杯伝説』の可能性もさらに増した。
歴史から解きほぐしていかないと、ヨーロッパのレアルな中世建築は語れない。建築とは奥が深いことをまたしても実感することとなった。
ヨーロッパの歴史を作ってきたカタルーニャの凄い歴史に想いを馳せながら、この『聖なる場所』に自分のデザインした建築が建つことを想像するとワクワクしてくる。
| U1 | 世界文化遺産 | 18:45 | comments(0) | trackbacks(0) | -









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