バルセロナ建築漫遊記

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DADA ダダは近代芸術運動の源 その『泉』はバルセロナにあり!


デュシャン、マン・レイ、ピカビア、近代芸術運動『DADA』を代表する芸術家たちの展覧会がバルセロナのモンジュックの丘に聳え立つカタルーニャ美術館(MNAC)で行われている。今回で2回目なのでじっくりと作品を見ることができ、近代芸術とバルセロナの重要性を再確認することができた。



ロンドンにあるTATE MODERNギャラリーからの巡回展で、デュシャンの『大ガラス』『泉』等、写真集で見た名作がズラリと展示してあった。その中でも目を引いたのは、ピカビアのスパニッシュ風の油絵とデュシャンの初期の油絵の風景画の作品の絵の巧さだ。機械仕掛けの作品で有名な『DADAの神様』といわれるデュシャンが、絵を書き始めた頃は実は印象派風の素晴らしい風景絵を描いていた。それは、抽象画で有名なピカソがスペイン古典派の絵をバルセロナの美術学校で描いていたということと共通している。また、ピカビアがスペイン貴族の父を持つパリの裕福な家庭に生まれ育ったアーティストであったことで、パリ画壇で既にピカソ、ダリ、ミロの活躍のベースが用意されていたことが分かる。そのピカビアの作品が今回多数展示されており、デュシャン、マン・レイと共にDADAダダ近代芸術運動をニューヨーク、チューリッヒ、パリ、ベルリンにDADAグループを組織し、欧米の都市に展開し発展させていったのが彼であったことが理解できた。そして、1916年にバルセロナで編集された雑誌『391』がDADAの芸術思想を表現する場となり、コラージュ、レディメイド、写真、映像の新しい手法とメディアでDADAを世界的に新芸術として認めさせることになったのである。

またピカソはマラガ生れであるが、絵画教師であった父のバルセロナ美術学校の赴任で14才の時に来て、モデルニスモ全盛期の19世紀末のバルセロナで『青の時代』が始まり、その後、パリに住みながらもバルセロナを行き来しながら、1904年パリの画廊でピカビアたちと共にクループ展を行い『バラ色(Rosa)の時代』をむかえる。そして、1906年の8月に恋人オリビアを連れバルセロナに戻りバカンスをピレネーの山の村(Gosol)で過ごしている。

そしてその翌年、1907年に近代絵画の革命とも言われる『アビニョンの娘たち』が誕生する。このアビニョンは南仏のアビニョンの町ではなく、ピカソの育った、バルセロナ旧市街のゴシック地区を港の方に抜けるアビニョン通りの娼婦たちを描いたものというのが本当らしい。先週この通りを久しぶりに歩いたが、石造りの古い建物が迫って建っていて昼でも薄暗い通りで、昔ながらの怪しげな酒場が残っていて今でもその面影が少し感じられる。

この『アビニョンの娘たち』の一枚の絵が、キュビスムとしてモダンアートの幕開けとなるのである。ここに描かれた娘たちを見ると、省略された線で平面的に目が大きく描かれた姿はピレネーのロマネスク教会に描かれた壁画を思い出される。オリビアと一緒に過ごしたピレネーの村でのバカンスがこの絵画手法を生み出したのかもしれない。
つまり、近代絵画の誕生は花のパリを舞台に、ピカソという才能ある若いスペイン人芸術家を媒体として、バルセロナ、カタルーニャの伝統と歴史が重要な役割を果たしていたことが解った。

そして、『機械化時代』の近代というエポックは、ダダイズムへと発展し、文化、芸術にも大きく影響していることが分かる。そこでも、スペイン人芸術家ピカビアを中心とした活躍により、世界的芸術運動へと広がって行った。それが1916年にオルガ・サチャロス女史との間でバルセロナで編集企画された、機関誌『391』の創刊による所が大きいことが解ったのは今回の収穫であった。

ピカソは大金持ちとなり、天才芸術家として92歳で死ぬまで充実した生涯を送った最初の芸術家である。それは彼がバルセロナで育ち、カタラン人としてこの土地を愛して、疾風怒涛の青春時代を力強く生き抜いて行ったからではないかと思う。
| u1arc | 芸術家 | 17:39 | comments(0) | trackbacks(0) | -









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