バルセロナ建築漫遊記

バルセロナからの気ままな発信です。
『ヴィオレ=ル=デュックからコルビュジェへ』          フランス近代・コンテンポラリー建築の文化遺産化を目指すシャイヨ宮建築文化遺産博物館(1)
先週の日曜日バルセロナではオープンハウスがあり、コルビュジェの一番弟子セルトによるスペイン共和国パヴィリオン(Pavello de la Republica)をようやく見ることができた。



この建物は1937年、スペインが当時内戦状態で第二共和国時代の混乱の中、パリ万博の為に建てられたパヴィリオンである。共和国政府がフランコ政権の攻撃に合い、マドリッド、バレンシアと転々とし、この年にバルセロナに移転している。4月にはヒトラーがバスク地方のゲルニカ村を爆撃し、その様子をピカソがペンキで短期間で描き上げ、あの『ゲルニカ』の絵を展示したことで有名だ。

この『共和国パヴィリオン』はカタルーニャの自由と独立の意志を表明するものとして、92年バルセロナオリンピックに合わせ、国際記者村近くのエブロン地区に再建築されたものである。

まるで飾り気のない工場建築のようなファサードで、これが万博パヴィリオンとは思えないような建築である。



グランドフロアは鉄骨のピロティ柱で支えられ、この斜め格子の吊門扉を開けると舞台のあるパティオと一体となるフリースペースとなる。

入った右の壁にはいきなりピカソの『ゲルニカ』がある。
当時このようなに外壁一面ににペンキで描かれた落書きの様であった。
それが現在では人類の遺産としてマドリッドのレイナ・ソフィア美術館に大切に保管されている。



ゲルニカの絵を鑑賞できるようにというピカソの指示を受け、工事中に中央にあった柱を取り除く設計変更したらしい。



ピロティを抜けると奥にはパティオがある。この部分が観客席部分で、ワイヤーが張られているのは日除け天幕の為のもの。グランドフロアーレベルはオープンフリ−になっており、イベントに合わせフレキシブルに使えるようになっている。



基壇の薄茶色の石積み、ゲルニカを展示してある赤く塗られた独立壁。アルマグロ=牛の血色に塗られた鉄骨フレーム。その壁はグレーの波形石綿板。右端は白く塗られたRCのマッスに4つの円形の排気口のある機械室。それを繋ぐ黒の鉄格子の嵌った両端の2つの開口部のある白壁。
それにバルセロナの真っ青な空。

   !!!まるでキュービズムの絵を見ている様!!!

地中海の青空を背景にした幾何学的構成が美しい。
これぞが合致した理想の建築
バルセロナにも程近い南仏のセトで生れたポール・ヴァレリーが『エウパリノスまたは建築家(森田慶一建築論内 訳)』で書かれているいわゆる『歌う建築』である。

安価な工業素材を用いた工場のような機能本位の合理的モダン建築も設計次第で芸術作品になりうることを示している。
この建築理念は当時グロビウスが校長をしていたバウハウスの近代建築の理念でもある。

石山さんの名作『幻庵』もこのラインの延長上にあると思う。



真っ青な空の下、遠くバルセロナの街と地中海の瑠璃色の水平線を望む。



このスペイン共和国パヴィリオンのあった1937年のパリ万博が開催された場所は、エッフェル塔の軸線上にあり、現在は建築文化遺産博物館になっているシャイヨ宮であることが判った。



パリとバルセロナは、ローズラインでREPUBLIC=共和国が一直線で繋がっていたのだ。、



シャイヨ宮建築文化遺産博物館入口。
1878年に開かれた3回目のパリ万博の時に、ナポレオン軍のスペイン、カディスでの勝利を記念して、イスラム・ビザンチン様式で建てられたトロカデロ宮の中央劇場部分を取り壊し、左右の両翼=ウイングの基礎の上に建てられたギリシア・ローマ古典風モダン建築。

神殿を感じさせる人間の寸法を超えた巨大な列柱、
入口の構成とスケール。1937年当時のファシズム建築に通じる建築デザインボキャブラリーである。若き日、建築家を夢見ていたヒットラーの右腕となり、ナチスの建築家として有名なアルベルト・シュペアー設計のナチスドイツパヴィリオンは、ここからエッフェル塔を望む軸線上中央にソヴィエト共産党パヴィリオンに競い合うように向かい合って建てられた。

第三帝国をシンボライズしたと思われる3本の高く聳える柱で支えられた台座には、ナチスのシンボルの巨大な鷲が乗っかっていて、共産主義をシンボライズしたソビエト館を見下ろし睨みをきかせていた。

両パヴィリオンの『プロパガンダする建築』デザインはこの万博で金賞を受賞している。

3年後の1940年、念願のパリに侵攻したしたヒットラーは、シュペアーと共にエッフェル塔を背景にここで撮った写真が残されている。

 

シャイヨ宮建築文化遺産博物館入口をまず最初に出迎えてくれるのが、このMoissacのロマネスク教会の素朴な彫刻、レリーフで埋まっているアーキヴォルト=飾り迫縁の入口。

12,13世紀ロマネスク、ゴシックの中世の建築の修復を多く手がけたヴィオレ=ル=デュックの石膏レプリカコレクションを基にして、最初にフランス歴史的建造物博物館として1878年後にトロカデロ宮に創られたものである。

その後、1937年にシャイヨ宮に改築された時にもデュックのこれらの中世の建築文化遺産を引き継いだ。

その時にシャイヨ宮の建築装飾デザインはヴァレリーが関わったという記述がある。
ヴァレリーは建築芸術に関して若い頃から情熱を持っていたことが知られている。
19歳の時に書かれた『建築家に関する逆説』(1891年)ではその3年前からヴィオレ=ル=デュックの著作『建築事典』『建築講話』を読み込んで丹念にメモを取ってデュックの建築論に心酔していたようである。

そして新しい時代の建築芸術を待ち望んでいた。
それがこのシャイヨ宮の工業製品の装飾鉄骨の梁を渡して採光の為のガラスの天窓の屋根を架けるという建築の内装装飾デザインにも影響を与えていたのではないかと思う。

デュックによるデカルトの方法論の建築考古学への応用に影響を受け、近代フランスの知識人=ヴァレリーを生み出すことになったと思われる。
近代の新しい建築様式を生み出す為には、フランス中世の建築のデカルトの方法論による徹底した分析とその時代に合った綜合が必要と考えていた。



それで現在は、2階のモダン&コンテンポラリー建築展示階になっているコルビュジェのマルセイユのユニテの住居単位が原寸大で再現されている。





| u1arc | コルビュジェ | 23:29 | comments(1) | trackbacks(0) | -
ピレネー噴火口の麓の街Olotにあるソラ・モラーレスの家=Casa Sola Morales



先日SOS Monumentsの仲間達とバルセロナから北へ100キロ程、ピレネーのフランス国境に近いOlotという街へ建築見学に行ってきた。
この見学会での一番の目的は、ドメニク・イ・モンタネールがモデルニスモ様式で改修(1913-1916)した、あのイグナシ、マヌエルを生み出したソラ・モラーレス家の中を見せてもらえることにあった。

この辺はイベリア半島では珍しく40もの噴火口がある火山地形になっている。東ピレネーフランス国境にも近いOlotの街は、その噴火口の麓に造られていることが上の地図でよくわかる。

1万年前には火山活動は停止しているが、1427年と1428年には大地震があり街は壊滅された。それでもすぐに復興し、右上の四角の点線で囲われた旧市街地と川を挟んで中央から左下にかけて20世紀初頭に新市街が形成された。
この新市街地は、キューバのハバナで一儲けをしたIndianos=インディアノス達によって造られた田園都市であったのだ。

日本でも最近、インディアノスとカタラン人に関する研究書が出版され知られるようになった。アフリカからキューバへ黒人奴隷を送り、砂糖とタバコを交換し、奴隷はアメリカ本土へ綿花栽培の労働者として白い綿花と交換されヨーロッパへ輸出され綿繊維工業が発展し、綿布をアフリカに輸出するという、この大西洋三角貿易がヨーロッパの産業革命を引き起こした基盤となっていたと言われている。

特にガウディのパトロンであったグエイ家もインディアノスの一人で奴隷貿易で儲け、カンタブリア地方出身で同じくインディアノスの富豪、コミ−リャス侯爵ロペス家と結婚し、バルセロナの名士にまで登りつめた。

ガウディは、グエイの依頼でにコロニア・グエイの綿工業都市、現在グエル公園になっている所には、新興ブルジョアのお金持ちの為の田園都市を計画している。

19世紀末の1899年、スペイン領であったキューバがアメリカとの戦争により領土を失い、インディアノスがスペイン本土に引き上げてくる。特にカタルーニャ出身者が多く、大金を持って故郷に戻ってきた。世界的にタバコ会社を経営していたマヌエル・マラグリダ(Manuel Malagrida)がプロモーターとなってイギリスの田園都市に倣い、Olotの新市街地を1916−1920に造成区画販売をした。

川を挟んで2つの街区があり、旧市街側は『スペイン広場』を中心に8本の放射状の街路樹大通り=アヴェニューが拡がっていて、コロン=コロンブス橋の向こうにはもう一つの街区の中心、『アメリカ広場』から同様に8本のアヴェニューが放射線状に拡がっている。

インディアノスの脳内イメージを、そのままここOlotの街に都市計画したかのようである。
しかし、ガウディのグエル公園同様、第一次世界大戦の影響で区画分譲地が売れずに最初の計画通りにはならず、スペインとアメリカの2つの街区とそれを結ぶコロン橋、中央広場から広がる8本のアヴェニューの主なインフラだけがなんとか実現されたようである。



インディアノスによる田園都市構想はユートピアに終わったが、それが現在のOlotの閑静な新市街を形成している。

その中でも特に際立っている住宅があった。それもそのはず、スペインのマッキントッシュと言われているジロナ出身の建築家、ラファエル・マソの作品である。
この建築Casa Masramon(1913-1914)はマソの代表的作品で、バルセロナ・モデルニスモ様式の後のノウセンティシスモ=新世紀主義といわれるものだ。マソ自身もウィーンに行っているように、ホフマン等のセセッション・スタイル=様式の影響が見られる。



2階開口部部分に使われている瀟洒な青色装飾タイルは、自身のタイル工場で焼かれたものである。




建物の曲面に合わせ唐門風になっている。



最近博物館として公開されているジロナの彼の自邸は、その繊細でモダンなデザインはマッキントッシュを彷彿とさせる素晴らしいものだ。



ジロナの有名な建物が彩色されたオニャール川風景。中央白く塗られた建築がマソの家で、現在マソ建築家博物館になっている。



マソ建築家博物館のプレート。モデルニスモ後のワインのカテドラル建築家セサール・マルティネイと同様ノウセンティスモ建築家とある。







この建築が今回お目当ての、ファサードがゴージャスでエレガントなソラ・モラーレスファミリーの家。

それもそのはず元侯爵家の邸宅で、1781年にイタリア人建築家、フランセスク・ブリーリによってバロック様式によって創られた宮廷式である。
それがドメニク・イ・モンタネールによって1913-1916に2軒あった建物を一つに纏め、そのファサードに装飾をたっぷりと施した彼のモデルニスモ様式で改築デザインされたものだ。
中央2つのイオニア式の柱に取り付いてベランダを支えている美女たちは、地元Olot出身の彫刻家Eusebi Arnauによるもので、世界遺産のバルセロナにあるカタルーニャ音楽堂の彫刻も彼によるものである。



柱頭にエレガントな渦巻き装飾のあるイオニア様式の女性的な柱+それに取り付く大理石の美人像+少し前に迫り出したなだらかな曲面のテラス+その曲面に合わせ鉄で創られた花と渦巻き装飾の手すりと下部にある鉄格子。

女性的なイオニア様式の柱をベースにしてものの見事にゴージャスでエレガントな建築ファサードをデザインし尽くしている。

この改築された建築は、ガウディのカサ バトリョ(casa Batllo)同様、ドメニク・イ・モンタネールのモデルニスモ建築の最高傑作の一つであると思う。




カテドラルを望むために主寝室に取り付けた歪んだ真珠=バロック風装飾のトリビューン見上げ。



ロココ・バロック宮廷風に絵ががれたゴージャスなサロン。



ピンクの布地でロマンチックにデコレーションされた寝室。



寝室入口アーチ頂点にはソラ・モラーレス家の金の紋章(左半分にソラ=太陽+右半分モラーレス=上部は一本の桑の木と下部には3本の横線が付いている。)




壁には家族のたくさんの肖像画と天蓋付きのベッド。



奥はカテドラルを望むために主寝室に取り付けた歪んだ真珠=楕円形バロック風のトリビューン。



階段室天上部にある格子状のトップライト。



最上階ロマネスク回廊風テラス。



屋根を支える列柱の見上げ。軒先裏は花模様のかわいらしいタイルが貼られている。



バロック風トリビューンの屋根見下ろし。黄色いウロコ状のセラミックの屋根瓦。



下の階のゴージャスな内装とは打って変わって、田舎屋の屋根裏の様な最上階物置スペース。階段室天井のガラスが張られているトップライト部分。



最上階軒裏見上げ。左がオリジナルの屋根、古い大梁に斜め材を入れを補強している。その上に小屋掛けして垂木を渡しスペイン丸瓦を載せた古民家の屋根構造。
右は最近改築知多と思われる4cm厚の薄いレンガをモルタルで繋げたもの。



奥の黒い壁はこの地方で取れる火山石を石灰モルタルで固めた外壁のオリジナル。
手前レンガの壁は間仕切り壁。上と下ではレンガの色、積み方が異なる。
したがオリジナルで上が後で修理した時のものであると推測される。

昨年のガウディの誕生日、6月25日に書いた『バルセロナの新興ブルジョワジーの豪邸建ち並ぶティビダボ山』では、

「それを救ったのが、74年フランコ死後再びカタルーニャは自治を取り戻し、GRUP Rの建築家たちが主体となり、本来のバルセロナブルジョワジーの活気 が出てきたところが大きいと思う。その建築家の中には、市の助役となり92年オリンピックをオルガナイズしたボイーガス、その前の段階でバルセロナ再建築 を実現していった都市計画家マニエル・ソラ・モラーレス・イ・ルビオの存在が大きい。
弟はあの建築家イグナシ・ソラ・モラーレス・イ・ルビオあ る。このルビオの姓から解るように、彼らも、ジョアン・ルビオを伯父さんに持つルビオファミリーなのである。2004年のバルセロナフォーラムではマニエ ル・ソラ・モラーレスの弟子のジョアン・ブスケッツによりディアゴナル大通りが地中海まで到達し、
1859年のセルダのエンサンチェプランが150年後にようやく完成している。

ルビオファミリーのバルセロナの建築と街への想いが、新興のバルセロナブルジョワーの新しい力と一体となって、市民戦争、独裁政権を乗り越えを発展させて行ったともいえるのではないかと思う。」

カタルーニャ近代、バルセロナの建築・都市計画に貢献したのが、このゴージャスでエレガントな邸宅に住んでいたOlot出身のSola・Moralesファミリーだったのである。

| u1arc | 建築文化遺産 | 12:55 | comments(0) | trackbacks(0) | -
父=谷口吉郎を継ぐ2代目建築家=谷口吉生         ―金沢の鈴木大拙館―
バルセロナも昨日一昨日とまとまった雨が降り、すっかり涼しくなってきた。

日が暮れてから二匹の愛犬ランとマツ(ベルは6月2日未明、風太郎の部屋で息を引き取る。享年13歳。ベルは今この森の稜線のいつも休憩場所にしていた松の木の下に眠っている。)を車で森に散歩に連れて行くと、イノシシ6匹のファミリーが道路を塞ぎ、ひたすら食べ物を探しているようで動こうとしない。
それをやり過ごし少し先の所で車から降りる。
森の奥へ進んでいくと今度はホウホウと鳴き声が近づいて来て、上を見るとフクロウが飛んできて近くの木にとまった。

まだまだ自然の残っているサンクガットの森である。
これだけまとまった雨が降ってくれれば、もうすぐキノコ収穫の森となる。



この春の一時帰国では母方ゆかりの地を旅行することにした。
5年前は父方ゆかりの高崎であった。
(さらに祖父のことを調べてみると、旧制高崎中学の先輩で丸ビルに『和風堂』主人であった馬場一路(一郎)と親交があり、店に自分の作品を持ち込んでいた工芸作家であったことが分かった。『和風堂』の店名は常客であった夏目漱石が命名したとある。高崎の白衣大観音の敷地内に氏の一路堂記念館があり、その館の設計がタウトに学んだ水原徳信であった。)

いずれもブルーノ・タウトの日本美再発見と重なる旅となった。。

加賀藩の家来として金沢から江戸に出てきて、幕末は本郷三丁目の羊羹の老舗『藤むら』のところに住んでいたという母方のお祖父ちゃんの家系。それで私の大学時代までは千駄木の不忍通りで『日の出パン』というパン屋をやっていた。

祖父は店をおばあちゃんに任せ、あの界隈、今はやりの谷根千を飲み歩いていた。上野の西郷さんの銅像で有名な高村光雲の家が近くで、よく碁を光雲と打っていたらしい。それで、いつもは負けていたらしいのだけど、光雲の彫った孔子像を賭けたら勝ってしまった。

それで光雲の孔子像が家のお宝になっていたとのことである。

その像は母が嫁に来た後なくなって、どこに行ったのだろうと言っていたのを思い出す。亡き母の法事の席で長男であった叔父が、おじいちゃんの酒の飲み代になったということを言っていた。

実家を片付けていたら、立派なそれがあったことを示す掛け軸の書だけが出てきた。

それで今回の一時帰国では、母方先祖ゆかりの地、金沢へ行くことにした。祖母は尾張、名古屋出身で実家は浅草で米屋を営んでいたらしい。
これも面白い話が残されていて、祖父が若い時にその米屋の3姉妹の一人に一目惚れしたらしい。それもそのはず、浅草小町と呼ばれるほどの美人だったとのこと。それで米屋のお父さんにあなたの娘を嫁にくれと言ったのだが、嫁にやるだけの蓄えがなかったらだめだと言われたそうな。かなりの大金であったのが、勝負事には強かったおじいちゃんは、上野のサクラの大木を切る権利をどこからか手に入れ、それを売って一財産作ってしまった。

それでめでたく結婚できたとな。


先祖にまつわる前置きはそれまでにして、金沢から名古屋を縦断するコースが今回の日本の建築を巡る旅となった。

金沢では話題になっていた姉島さんの金沢近美、飛騨高山では合掌造り、そして最後は、念願であった堀口捨巳の八勝館(大学の恩師が設計に関わった。)では食事をしながらゆっくりと見学をすることにした。

上野博物館では谷口吉郎の東洋館を見て、その向かい側に吉生の法隆寺宝物館を偶然見ることができ幸運であったが、実家が九谷焼窯元であった谷口の地元である金沢でも、これも偶然開館直後の『鈴木大拙館』見ることができた。

久しぶりに興奮するすばらしい建築空間にめぐり合うことができた。
今回の一時帰国では、『谷口建築が呼んでいる!』と本当に思った。


 

鈴木大拙ゆかりの家の博物館を予想し目指していたら、この建物に出会う。

この斜に構えた玄関アプローチ、プロポーション、ディテールの繊細さ、材料の質感の的確さ、空間がピーンと張りつめていて、格好良く決まっている。
この切れ味の良い建築は正しく谷口吉生と確信する。



受付入った所。左は内部回廊と呼ばれる長い廊下。クスの大木のある庭の為に創られたかの様。廊下ほぼ中央には3角形のクスの大木を眺める窓があるこの内部回廊の壁隔てた反対側には、ミースのバルセロナバビリオンのように薄く水を張った空間に外部回廊がある。



『学習空間』と呼ばれる床の間空間風のスペース。



『露地の庭』と呼ばれる石庭。奥の黒御影の蹲はイサム・ノグチによるもの。



重厚な和紙で作られた吊障子。露地の庭からの柔らかい光の明り取りとなっている。



可動な吊障子で露地庭と縁側空間部分と内部空間を仕切る。



ミースのバルセロナ・バビリオンを感じさせる水と石の壁で囲われたピーンと張りつめた空間。



切り石の床、粗い削りの石を積んだ壁、コンクリート打ち放し壁、分厚い木ベンチ。素材の質感を混じり物無しで最大限に生かして建築を創っている。



池に迫り出した床の先の所から波紋が池全体に広がるような仕掛けになっている。



雨落しの鎖。少し前に降った雨が落ちてきて波紋の模様を描いている。



『思索の空間』と呼ばれる瞑想空間。



座禅を組む床は椅子式。



土蔵造りの漆喰白壁。



秋冬の雲の多く変りやすい日本海特有の気候と調和するように考えられた建築空間。



露地の庭。イサム・ノグチの三角・円・四角の黒御影の蹲。
| u1arc | 谷口吉生 | 09:00 | comments(0) | trackbacks(0) | -
昨日9月18日は『パリからバルセロナへ』到着26年目の記念日
昨日9月18日は私たちのバルセロナ到着記念日である。

26年前、パリでルノー5のかなり走り込んだ中古車を15万円ほどで買い、一般国道をリモージュ、カルカソンヌと2日かけてひたすら南下し、ピレネーを超えてバルセロナまでの1200キロの道のりを、当時8ヶ月の身重の妻と一緒に辿り着いたことを今でも鮮明に思い出す。
(筑波万博での国連館爆破解体を終えて、バルセロナまでのエピソードは2004年5月の建築雑誌『新建築』STAND POINTというコラムにも掲載された。)

そして夕方近くにバルセロナに着き、港近くのホテルの前に車をとめて夕食から戻ってきたら、車の中の荷物はすべて盗られていた・・・

到着初日待っていたのは厳しいバルセロナの洗礼であった。

あれから26年。いろいろなことがあったが、このバルセロナで建築家としてやっていられるのは、ガウディが生涯追い求めていたような奥の深いarquitectura=西欧建築への想いと、バルセロナの街の恵まれた環境のせいであろうかと思う。


世界中のメディアにも9月11日のカタルーニャの祭日Diadaでの150万人デモが報道されているように、バルセロナではindependencia=独立気運が高まっている。

今までは自分はカタラン人でないからという理由でこの式典までは実際に見たことはなかったが、このところのスペイン経済危機でカタルーニャの民族意識が高まっているのを感じ、今年はバルセロナの街にくりだし市民と共にこのDiadaを体験してみることにした。



メトロのarc de triomf=凱旋門駅を上がると人が続々と集まってきている。ESTELADAといわれるカタルーニャの独立国旗が巨大なレンガ造の凱旋門の入口いっぱいにはためいている。その下では当時の衣装を着た軍隊が銃を持って整列し、オーストリアの宮廷風の指揮官が命令を下しているようなテアトロをしている。




どうもここが起点となり式典が始まったらしい。
このムデハール様式のレンガ造の凱旋門は1888年、バルセロナ第1回目の万博の時に造られたものだ。今はシウダレラ公園となっていて白ゴリラのいた動物園としても有名であったが、1714年の継承戦争の時は、ここの城壁がフェリペ5世スペイン国軍に破られ、バルセロナの街が攻め込まれ占領された因縁の所である。占領された後にはシウダレラという外城がバルセロナの街に幾何学的な寄生虫の如く取り付いていた。それを19世紀中頃の産業革命で地方から人口が流入し、カタルーニャ復興運動(レナシェンサ)の高まりと共に、外側の城塞を取り壊すバルセロナ拡張計画=セルダのエンサンチェプランで整備された。

このレンガ造の凱旋門も、REPUBLIC=共和国の象徴であるパリの凱旋門に倣って、スペインアラゴン地方によく見られるのムデハール様式で創られのではないかとふと思い付いた。
多分この門には当時のアラゴン・カタルーニャ共和国の想いが込められたものであったのだ。

よく見てみると、両脇に2本ずつ4本の付柱が上まで通っている。その上には王冠がそれぞれ付いている!
これは正しくアラゴン・カタルーニャ王国の紋章で、それぞれの柱はアラゴン(サラゴサ)、カタルーニャ(バルセロナ)、バレンシア(バレンシア)、バレアレス(パルマ デ マヨルカ)の4つの都市国家を表したものだ。



この夏のバカンスでは26年ぶりにパリに1週間ほど滞在し歩き回った。その時に撮ったパリのエトワール広場の凱旋門。

ここから星型放射状に12本のAvenue=並木のある大通りが拡がる。そのうちの1本がシャンゼリゼー通りで、ルーブル宮正面ファサードの中心軸となっており、現在はルーブル博物館の入口のガラスのピラミッドを原点としてルーブル宮入口に建つ古代ローマのセプティミウス・セルウェス凱旋門を模して造られた第1のカルーゼル凱旋門からこの第2のエトワール凱旋門のアーチを通過し、デフォンスの第3の凱旋門と言われるLa GRANDE ARCHEまで延びている。



ルーブル宮正面ファサードの中心軸と現在のルーブル博物館の入口のガラスのピラミッド。



古代ローマのセプティミウス・セルウェス凱旋門を模して造られた第1のカルーゼル凱旋門。

ナポレオンによる古代ローマーーー>共和国ーーー>ミッテラン20世紀大パリ近代化国家を凱旋門でシンボライズするパリの一番重要な歴史都市軸となっている。

今回の旅行では世界の観光地『花のパリ』という以上に、18世紀末に王政から市民革命を経てREPUBLIC=共和国を最初に成し遂げたフランスとその都市計画とモニュメント建築を中心に見て回り、近代国家を生み出した共和制の重要性を確認できたことが収穫であった。

古代ローマのティトゥス帝の単一アーチ凱旋門をベースにして50m近くの高さまでそのまま拡大し、フランス市民革命後に共和国のシンボルとして造ったものである。マッス=ボリュームのプロポーションは同じでもオーダー柱、装飾のないのっぺらぼーの表面にレリーフ彫刻を施したものなのでヌボーとデカイ感じがして建築尺度的には締まりないと思う。

ルーブル博物館のM.I.Pei設計のガラスのピラミッドから南北軸=子午線を降ろしてみると、それがダヴィンチ・コードで有名になった丁度1672年にクロード・ペローによるパリ天文台を通るローズラインとなっていることが分かった。
これがルーブル博物館ニケの彫像の近くの床に打ち込まれているのを見つけたARAGOの記念メダジョン。



このローズラインはバルセロナまで繋がっていく。それを実際に測量したのがアラゴン・カタルーニャ貴族で南仏のペルピニアン出身の天文学者で19世紀の初めにダンケルク、パリ、バルセロナの子午線上を実測して回ったのがフランソワ・アラゴである。1830年パリ天文台長になりドームの観測所を屋上に設置する。また、共和国政府時代にはフランス歴代25代の大統領にもなった。



パリ天文台。クロード・ペロー(1667−72)このファサードの中心軸がパリ子午線=ローズラインとなっている。左屋上にあるドームはアラゴにより1830年に創られた。

この時にパリーーー>バルセロナのRepblic=共和主義はローズライン上に引かれていた。

話はパリの19世紀の共和国時代まで行ってしまったが、バルセロナに戻そう。



1714年継承戦争で命を落としたDiadaのシンボルラファエル・カサノバの像に向かって行進する兵隊達。いでたちからして1711年に神聖ローマ皇帝になったカール6世率いるオーストリア軍のようだ。



カサノバ像の前でカタルーニャ伝統の人間ピラミッド=カステジェスを披露している。



手を上げグルッと一回りして参ったカタルーニャの市民に挨拶。



黄色地に赤の4本線のカタルーニャの横断幕と花束を持って続々と市民がやってくる。



カサノバ像の前に置かれた花で飾られたたくさんのカタルーニャの紋章。午前11時半近く。
これから午後にかけてもカタルーニャ中から参列者が続く。





カタルーニャ独立の旗を振る若者。老若男女世代に分け隔てなくどんどんと人が集まってくる。
午後にかけても集まってくる人は途絶えることなく、カタルーニャ広場を中心として、通りは身動き取れないほどに膨れ上がった。

この日集まった人たちは150万人を超えたという地元警察の発表であった。
独立!独立!と過激に騒ぐのではなく、カタラン文化を共有する楽しいお祭り気分の人々であった。

スペイン経済危機で9月から付加価値税がさらに21%にも上がり、それを全てマドリッドの中央政府に持っていかれてしまうというカタラン人の抗議のマニフェストのように見えた。

これからカタルーニャは共和国独立の方向へストレートに行かないと思うが、もし、このまま中央政府が頼りなくEU離脱の危機が来たら、独立してEUに残る道を取るに違いない。

| u1arc | バルセロナの街 | 13:30 | comments(0) | trackbacks(0) | -
EU経済危機もなんのその。 スペインサッカーユーロカップ優勝
昨夜はスペイン中がユーロカップ優勝に酔いしれた。

このところのEU経済危機で危ぶまれているPIIGS諸国のスペインとイタリアとの決勝。
スペインは2008年ユーロカップ優勝以来、2010年ワールドカップ、今回勝てば歴史に残る3連勝ということで大いに盛り上がった。ゴールキーパーでキャプテンのイケル・カシージャスは守護神と祭り上げられ、バルサのチャビ、イネスタを始め7人の選手が2008年から参加していて特に今回の優勝は期待されていた。

テレビ中継が始まると道路から車と人が消え、普段はサッカーに熱心でない私も久しぶりにテレビ中継に見入った。

前半はスペインチームのパスが中盤でイタリアに早めにカットされ、すばやい攻撃で危ないところ場面が何回もあったが、守護神イケルがゴールをよく守った。
一点目は中央バルサのイニエスタからのパスが右サイドのセスクに繋がり、そこからセンターに出したボールにシルバがタイミングよく綺麗にビシッとゴール!!!
2点目は、今度はこれもバルサのチャビから走り込んできたジョルディにオフサイド紙一重の絶妙なパスを出しゴール!!!
これで、イタリア選手の動きが止まり、後半はスペインの一方的なパスサッカーで、イギリス、チェルシーで活躍しているトーレスが得点と完璧なアシストで4点目で、4−0のスペイン圧勝!!!

そして3大会連続優勝、最強のスペインナショナルチームとして伝説となった。

勝った瞬間「スペインやった!!!」と叫んでいる自分がいた。
Yo soy espanyol=私はスペイン人化が進んでいるのを実感する。
(スペイン人でもバルセロナのカタルーニャ地方は、自分はスペイン人だと言いたがらないが、ユーロカップのこの時期、この歌をよく聞いた。でも、優勝後バルサのチャビは黄色地に赤4本線のカタルーニャの旗を身に纏い、やはりバルサのセスクと一緒に掲げて写真を撮ってもらっていた。)

優勝翌日のマドリッドでの凱旋パレードには、伝説の勇者達を100万のスペイン人が出迎えた。
EU経済危機もなんのその。スペインはサッカーと観光で十分やっていける。



 
| u1arc | スペインサッカー | 11:30 | comments(0) | trackbacks(0) | -
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