バルセロナ建築漫遊記

バルセロナからの気ままな発信です。
フォスターswiss REとヌーベルtorreagbar の砲弾ビル






2つの砲丸型のビルがある。
上はロンドン シティにあるノーマン・フォスター設計によるswiss RE。
下はバルセロナに立っているジャン・ヌーベル設計によるtorreagbar。
同じ砲丸型でも全く受ける印象が違う。
フォスターの方はツルツル・ピカピカのハイテックな感じ。
ヌーベルの方は鱗の様なヌメリがセクシーな感じ。
あなたはどちらが好みですか?
| u1arc | - | 09:42 | comments(0) | trackbacks(0) | -
ロンドン 過去と現代のカテドラル=モダンアート美術館の架橋  ミレニアムブリッジ


 

テートギャラリ−のモネの睡蓮の絵がある間の窓から見た美しいミレニアムブリッジ。ローマのサン・ピエトロ寺院のドームを思わせるイギリスのルネサンス建築家クリストファー・レン(Christopher・Wren)によるセント・ポール カテドラル(St. Paul's  Cathedral)に繋がっている。

レンは外科医、数学者、天文学者、都市計画家、イギリス王室建築家とイギリスルネサンスの万能人であったが、特にニュートンも認めるほどの幾何学の大家であったらしい。建築家としては後期ルネサンスのイタリア、バロック建築家ベルニーニ、ドームはフランスのマンサールの影響が見られるとのことであるが、やはり幾何学が建築の原理としたルネサンスの万能人、アルベルティに近づこうとしたように思える。
こちら南面ファサードは正面入口ではなく建物側面にもかかわらず、建築全体のプロポーション、バランスがよい。以前のラテン十字プランのゴシック様式で計画していたらこのように美しいプロポーションにはなっていなかったように思える。
これはレンが承認されなかった最初のギリシア十字プランにこだわったのは、彼がルネサンス建築家としての信念をもっていたからであろう。

テートギャラリーは元火力発電所であった建築を再生プロジェクトの設計コンペでスイスの建築家ヘルツォク&ムーロンが選ばれ,ロンドンミレニアム2000年に合わせてオープンした。
このミレニアムブリッジはルネサンス様式のセント・ポール カテドラルと現代のカテドラル=モダンアート美術館を結ぶ架け橋の如く計画された。デザイン設計はノーマン・フォスターで構造はオヴ・アラップ社。テムズ川を挟んで向かい合うこの二つの過去と現在のカテドラルを橋桁を低く抑えた2000年の架橋と呼ぶにふさわしいハイテック・ポストモダンな吊橋のデザインとした。

しかし、オープン早々、吊橋特有の歩行振動の共振の揺れで閉鎖されていた。
デザイン優先しすぎたとしてフォスターは非難を受けたが、橋の下に制震ダンパーを付け解決する事ができ、
「臆病と言われるより、大胆なデザインで非難される方がいい。」
とフォスターはイギリスの建築家としての信念を語った。
さすがLord(侯爵)の称号を持つ大建築家の言う事は違う。

過去と現在のカテドラル建築を結ぶ架橋は、フォスター&オヴ・アラップの想定超えるほど揺れが激しかったらしい。







セントポールカテドラルの中央ドームに合わせ、立ち上がりを低く抑えた
吊橋のワイヤー。



中央に巨大な煙突がシンボリックに立つ、元火力発電所を再生したモダンアート美術館



吊ワイヤーのジョイント部分。向こうにはシティにあるフォスターの
弾丸ビルを望む。





TATEギャラリー大ホールへのエントランス



火力発電所のタービンがあったところの大空間をエントランスホール
としている。



コンテンポラリーアート年表
1950年代後半から60年代に起こったポップアート、ネオダダが大きく
扱われている。
日本では荒川修作、赤瀬川原平が日本のネオダダとして登場した。
コンテンポラリ−アートもイギリスでは芸術史になっている。



| u1arc | 建築文化遺産 | 10:41 | comments(0) | trackbacks(0) | -
鉄とガラスのイギリス・モダン建築のルーツは温室
 
 

これはロンドンのキュウ・ガーデンズにあるパームハウスといわれる大温室(1845-7) '98年に撮影した懐かしい白黒フィルム写真。

1851年に開催された世界最初の万博の水晶宮=クリスタルパレスよりも前に造られている。
水晶宮を造ったのは建築家ではなく温室を専門に造っていたパックストンという技術者だったのである。
それも当時建築とはみなされていなかった鉄とガラスの温室がルーツであった。ガラス屋根そのものは18世紀の初めから実用されていたらしい。
それから100年以上の時間を経て、このようなガラスのボールトの大温室が出来上がったのである。

ここまで来ると温室というガラスに覆われた小屋もArchitecture(建築)としてルネサンス風に格調高いものとして認められるようになる。基礎部には装飾彫刻をほどこされた花崗岩の基礎とそのジョイント部分には渦巻き状の装飾止め具など装飾され、鉄という近代工業素材を建築装飾として使おうという努力がされている。






特に大空間を必要とする近代都市生活に必要な鉄道駅舎と市場には、最小限の材料で最大限の空間を造り出すことが可能になった鉄とガラスはその都市機能を満たす建築材料として最適なものであった。

それで1850年以降、鉄とガラスのモダン建築が『建築の世紀末』のイギリスで造られるようになった。
その中でも有名なのが、前回のブログで紹介したゴシック・リバイバル様式のオックスフォード大学博物館、このキュウ・ガーデンズのパウムハウス。水晶宮=クリスタル・パレスは万博終了後、より規模を大きくして再建築され博物館、美術館などの文化施設となったが1936年焼失。

ロンドンの鉄道駅舎ではパッディントン駅(1850-4)とパンクラス駅(1868-74)が有名である。
当時いずれも中世のカテドラルに代わる近代建築として建てられた。





パッディントン駅(Paddington station 1850-4) '98年撮影





サント パンクラス駅(St Pancras Station and Hotel 1868-74)
今回2010年7月撮影したもの。

鉄骨の柱と梁を見ても、カテドラルの石積みの柱と柱頭、リブボールトの様に鉄という近代素材を装飾的構造としている。
アーチ部分、レンガの赤と自然石の白をイスラム建築風に縞状に積んであり、2重アーチのコルドバのモスクの影響が見られる。

水晶宮とパッディントン駅舎の建築に関わったオーウェン・ジョネスは、若き建築家の時に建築グランドツアーをしてギリシア・トルコのビザンチン・イスラム建築を見て回り、それで最後はスペイン、グラナダに6ヶ月滞在し、アルハンブラ宮殿についての研究したそうである。

そして1856年に初めての多色刷印刷の”The Gramer of Ornament”というアルハンブラのイスラムなど装飾に関する本を出す。この本はバージェス −−−>コンドル経由で当時の東大図書館にあったようで、伊東忠太の卒業論文『建築哲学』に「オー、ウェン・ジョ子ス」 萬国模様鑑として引用図書のリストに入っている。

絵、模様、図案の大好きだった若き日の伊東忠太さんはますますArchitecture=建築にのめりこんで行ったに違いない。

今回のイギリス旅行で、イギリスの近代建築は実はグラナダ、アルハンブラのイスラム、ビザンチンのスペイン建築から多大な影響を受け、それがそのまま明治期の日本の建築バージェス =>コンドル =>辰野=>忠太に繋がっている事がわかったのはの大発見だった。




| u1arc | 建築史 | 09:11 | comments(0) | trackbacks(0) | -
湖水地方のラスキンの家とゴシックリバイバル運動

先週の日曜日には6匹のダルメシアンの子犬達は2ヶ月となり、無事にもらい手の所へ旅立った。

一番気に入っていた茶ダルの『桂』はドイツの建築家の所へもらわれていった。
磯崎氏のサインの入った桂離宮の本で『桂』のいわれとブルーノ・タウトの説明をしたらこの名前を大変気に入ってくれて、散々迷った挙句にやはり『KATSURA』に落ち着いたとのこと。
ダルは建築家同士の国際文化交流にも一役買っている。

息子のレスターの大学卒業式に出席したついでに久しぶりにイギリスの建築を見て回ったが、さすがにモダン建築発祥の地だけあった見ごたえのあるものが多い。

98年のイギリス旅行の湖水地方のウィンデメア(Windermere)では、ピーターラビットの里で有名なビアトリス・ポターの家を訪ね、この風光明媚な湖水地方が1895年にナショナル・トラスト運動の中心地になったことを知ることができた。

そして、たまたま湖の岸を走っている時に見つけたのがこの瀟洒な白いコテージである。
何とそれは当時(19世紀中頃)イギリス近代社会芸術文化運動の重鎮、ラスキンの家であった。
この湖水地方がいかに文化的水準が高かったことをうかがわせる。

車の事故が偶然にも私をラスキンに引き合わせてくれたのである。



ラスキンはこの美しい湖の眺めの良い場所に立っていたカントリーハウスを修復し、改築をして彼好みの住居にしていたらしい。そして1900年にこの家で亡くなった。ここを芸術家、批評家、思想家達が集まり拠点にして、ラファエル前派、アーツアンドクラフツ、ゴシックリバイバル、ナショナルトラスト運動のイギリス社会芸術思想を支えたとのことである。インドの独立の父、ガンジーも訪れたという記録がある。
近代社会芸術運動の発信地だったのである。

オックスフォード大学の教授でもあったラスキンは1855−9年にオックスフォード博物館の設立に関わり、ピュージン風のゴシックスタイル建築のディーン(Deane)とウッドワード(Woodward)の案が選ばれた。ウエストミンスター寺院のプランを参考に石積みのゴシックスタイルで、、開口部は尖頭アーチでアーチ部分はビザンチン、イスラム風で赤、白の縞状に積んである。クロイスター中庭回廊を建物中央部にとり、そこを当時の建築新素材、鉄の柱と梁、ガラス屋根で覆った大空間とし、博物館の展示スペースとする。柱頭にもアカンサスの葉のような様々な植物的な鉄製の装飾が施されている。柱頭からは尖頭アーチ曲線の梁が延び天上部で結ばれている。鉄という工業的な素材を装飾でカモフラージュして使っているようである。
中世の職人が手がけたようで手工業的である。

装飾細部にわたってラスキンの好みがこの建築ににじみ出ているように思える。
ガラス、鉄という新しい建築素材を使い、それをラスキンのゴシック好みに細部まで引き寄せていて、新しい建築はゴシックリバイバルとアーツ・アンド・クラフツは一体で進めて行く方向性を付けたと思われる。









このラスキンのイギリス近代社会芸術思想が、日本では明治期(1877)に東京帝大の造家(建築)学科に赴任したイギリス人建築家コンドルによって辰野金吾、伊東忠太へと繋がり、彼の建築進化論へと発展して行ったように思えてきた。
コンドルの師はバージェス(W.Burges)というラスキン親派のゴシック・リバイバリストの建築家で、ロンドンに事務所を構えていた。、辰野金吾も其事務所に留学(1880−83)していたという。其の時に日本の建築の事を尋ねられ、辰野は何も答えられなかったという事が有名な逸話として伝わっている。それが、伊東忠太に『美術建築』を研究させる契機になった事を『建築哲学』の自序に書かれている。

本文の中にも「ジョン、ラスキン」先生の彼の有名なる「セブン、ランプス」(建築の七燈)とあるのでかなり読み込んでいたように思える。

日本の明治期の建築はアーツ・アンド・クラフツとゴシック・リバイバルのラスキンの思想のイギリス正統のモダン建築の流れをくんでいたことがわかった。


| u1arc | 建築史 | 19:42 | comments(0) | trackbacks(0) | -
息子の卒業式とレスター大学エンジニアリング学部
 先日、イギリス、レスターの大学の卒業式へ行ってきた。
イギリスは4年ぶりだったので、ついでに一週間のバカンスを取り、ロンドン、ケンブリッジと建築を見て回った。

バルセロナからレスターへはイージージェットでミッドランド空港が近いのであるが、現在は使われていないという。迷った末に今回はロンドンのルートン空港ではなくヨークよりのロビンフッド・ドンカスター空港という小さな地方空港にした。一緒にレンタカーも自分の乗っている車と同じ車種のルノーを予約した。
12年前にスペインからユーロトンネルをくぐってきた時は、左ハンドルで左側通行のイギリスになり日本での運転との習慣が混乱し、最後は湖水地方の田舎道を右折した所で事故に繋がった。
なので、それ以降はイギリスの現地でレンタカーを借り、日本で乗っていた時と同じように右ハンドルの車に乗ることにしている。

夜の11時にドンカスター空港に着き、レンタカーのカウンターへ行くと予約していたルノーではなく最新型のフォードの車しかないと言われる。車を変えたいのであれば近くの町の営業所へ明日の午前中に変えに来いという。仕方なく20キロ程離れた今夜泊まるホテルへはその車で向かうことにする。
勝手の違う新型のフォードには四苦八苦したが、何とか車を動かすことができ、真夜中の地方空港の駐車場から出すことに成功する。しかし、運転することに手一杯でイギリス特有の交差点のサークルで回されてしまうと方向感覚を失ってしまい、なれない町名の表示を見るので精一杯である。おまけに真っ暗の夜中である。ナビもない。何度同じ交差点のサークルをグルグル回ったことか。2時間ぐらい探し回って諦めかけていたところ、前日グーグルマップで確認しておいたホテルの建物が突然、暗闇の中から現れた。
次の日は、道に迷うことなくレスターの彼の下宿に着くことができた。

今の世の中、なんでもグーグルがないとやっていけないことを実感する。





卒業式当日、パイプオルガンの鳴り響く中、学長、プロフェッサー達が中世の衣装を身に纏い、伝統色の強いセレモニーは行われた。
さすが格式を重んじるイギリスの卒業式という感じである。



1913年に建造されたデモンフォ−ルト(De Montfort)ホール。
大屋根破風のローマのバシリカ建築風でクラシックである。
12世紀から南フランスの十字軍騎士であったデモンフォールト家がレスター伯爵となり、レスターの都市国家を造り治めたので、市民ホールとしてこの名を冠したとのことである。

祖父母を含めた大ファミリーで,息子,孫の晴れ姿を見ようと出席しているイギリス人父兄(元植民地であったインド、パキスタンのアジア系ののファミリーもiいる)参加で、より儀式としての重みを意識せざるをえない。まだ階級社会の強い意識がこういうイギリスの文化を支えているように思える。

その中に、自分の息子の晴れがましい姿を確認できた時、親としての想いというのが込み上げて来るのは自然のことである。
筑波での懐妊、バルセロナでの出生、子育てと25年の年月を思い、親としての一応の責任は果たせたと思う瞬間でもあった。

それが社会、文化を支えるベースになっていることをここに来て実感できた。




今回のレスター再訪問で,モダン建築の名作でニューブルータリズムといわれるジェームズ・スターリングのレスター大学エンジニアリング学部(1959−64)の建物を改めて見る。

伊東豊雄さんも若かりし頃、レスターへこのスターリングの建物を見に行ったと伺った。コーリン・ロウの著書"The Mathematics of the Ideal Villa and Other Essays" の『マニエリズムと近代建築』という翻訳本を出しているのでスターリングに当時かなり傾倒していたと思われる。ロウはスターリングのリバプール大学の恩師で、年齢差が6才上の兄貴分的建築思想的支柱であったと言われている。





上の写真は1895年に建てられたレスター駅舎。
外観はルネッサンス風様式でレンガと石の積み方は東京駅を思わせるが、内部は今では廃れてしまったリベット鋲打の鉄骨のトラス梁で20m程飛ばしたガラス屋根で透明感のあるモダンで明るい空間である。

伊東さんはこの駅舎に降り立った時、『まるでスターリングの建築そのもの』と感じたという。

ガラスの使用により近代建築の透明性が言われるようになり、Literal(本来的な)ものとPhenomenal(現象的な)ものという概念を、ロウが論じモダン建築の重要概念として提示されたが、今思うと日本で本当に理解できていたのは実は翻訳者の伊東さん本人だけだったのかもしれない。
レンガ、石の伝統的建築素材に、鉄、コンクリートの近代的素材を使った当時の進化系ハイテック建築で、これがイギリスの正統建築の流れになって、現在のノーマン・フォスター、ロジャーズに繋がってきているように思える。
イギリスの伝統的レンガ・石積造建築をRe-interpretした進化系であったことを深い認識でその時既に直感的に見破っていたのであろう。
 
さすがに産業革命からアーツアンドクラフツの芸術復興を経てきたイギリスの本物(Real)のモダン建築は歴史(History)とモダン建築のTheory(理論) and Practice(実践)の必要性を実感した。



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